お茶あれこれ249 2017.1029~1120

1. 古田廣計Ⅳ
モミジが散り始めた。数は圧倒的に桜の落ち葉の方が多いが、始末しにくいのはモミジの方である。軽いから、掃いてもふわっと浮かんで塵取りにも入らない。木香バラや木々の枝に引っ掛かり、見苦しいし取り難い。遠く霞む久住連山の肌合いが変わってきた。薄く藤色がかっている山は、近くへ行くと枯葉色から黄色、茶色、赤、橙と、晩秋に向かって装いつつある。山麓に沿った道路を走ると、カーブを曲がる度に、目の前の鮮やかさに驚く。裾野は、薄の白い穂波が風に揺れる。

古田廣計の史料を、また少し続けたい。四百回忌の記念誌にも載せたが、福岡黒田藩からの織部流返り伝授のことである。古田廣計に黒田藩の茶堂槙宗空から手紙が来て、藩主に了解をいただき伝授を受けたとする従来の説はおかしいと、以前書いた。博多で伝授を受けた古田代助は、織部の孫重直の血を引く古田一族宮津屋であることも、別な機会に話した。新しく読んだ史料、古田家文書を紹介する。

「先祖古田織部正之茶法、筑前福岡ニ相残り、去未之春、宮津屋代助、筑前見物ニ罷越候処、福岡之家中、槙宗空、代助義ハ古田ノ末流之訳傳承ニ而、茶室ニ而、出會有之、段々丁寧懇意ニ而、織部流之茶法、真之臺子之式迄、悉相傳有之、此以後、豊州古田之本家へ、書通等致度、右之通ニ有之候ヘハ、筑前之茶法も手厚ニ相成趣、古田喜兵衛迄文通も有之、尚又代助へ委曲、演説有之処、黒田家と御當家は古来ゟ之訳有之、内々ニ而文通等も難仕、右之趣、具ニ長谷川金右衛門ヲ以達、御聴候処、茶法傳来之義、旁向後文通出會等迄、勝手次第ニ仕候様被仰出」

読み易くするために、読点を余分に打ってある。「有之」は「これあり」と読み、古文書にはよく出る。「ニ而」は「にて」、「ゟ」はこれもよく出てくる決まった文字で「より」。「難仕」は返り点で「仕りがたく」と、同様に「被仰出」も「仰せ出される」と読む。大体意味は通じるとは思うが、簡単に通してみる。

「先祖織部の茶法は福岡に残っていた、去る未(ひつじ)の春(天明7年=1787)に宮津屋代助が博多見物に出かけたところ、福岡藩の家臣槙宗空に出会った。(偶然というよりも、黒田家茶堂である槙宗空を古田代助が訪ねたと考える方が自然と思われる、織部から180年という時が経ているが、織部の弟子であった土屋宗俊が黒田家の茶堂となって以来、黒田藩は古織流茶の湯が続いていた)槙宗空は代助が古田家の家筋であることから茶室にて会い、真之臺子まで悉く伝授し、その後岡藩古田本家へ手紙も持たせた。あとは、廣計と代助の話になるが、実は黒田藩とは関ケ原の戦いの折、別府石垣原の戦いなどで黒田藩には恨みがあり、それ以来一切の付き合いをやめて200年近くになる、文通等もし難い。それで長谷川金右衛門を通して藩主久貞公に聴いてもらった、久貞公は茶法伝来のこと、また今後の文通や出会うことも自由にしてよい、との仰せであった」

不染斎随筆も含めて、幾つかこの返り伝授の事が出てくるが、これが一番腑に落ちる。「去未之春」「筑前見物」「宮津屋代助」この流れが自然だろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?