お茶あれこれ243 2017.1012~1025

1. 柄杓点前
東の蹲のそばに、白の杜鵑が花から種になろうとする頃、ツワブキが眼を引くほどの黄色の花を咲かせた。ちょうど、後ろの塀に這っていた蔦の葉が枯れ始め、秋海棠が終わり、満天星が色付く前のちょっと寂しい辺りが、華やかになった。気持ちも、何か温かくなる。遅くに咲く紫の杜鵑は、今が満開。勝手にあちこちに増えたまま、大げさに咲く花と思っている。もう終わりかけの青(と言っても少し藤色っぽいのだが)の杜鵑は、それに比べると花も小振りだし、あんなにみっしりと枝中に花を付けない。幾つかそっと控えめに咲く青は、美しい。

前回の続きになるが、利休と織部の比較をすると、実際に古来言われてきたような感もある。さりげなく自然な千家さん系統の茶に比べ、織部流の書院の茶はどこかに構えるところがある。これを、書院で大名を客に台子の茶を振る舞う武家の茶と言ってしまえば、それで終わる。織部流の茶も、草庵の侘茶は小間に相応しく穏やかである。おそらく織部の好むところも、草庵の茶であったと思われる。茶会記や道具は、そう語っている。違いを目立たせようと柄杓の扱いを際立たせると、粗末な点前になるだろう。織部の茶書には、「結柄杓」「置柄杓」「引柄杓」「切柄杓」「鏡柄杓」などの扱いがある。これを、弓道とのつながりと言われることもある。「置」は弓に矢を番える所作、「引」は弓を引き絞った姿、「切」は矢を放った形、と説明する、或いは柄杓を造らせた最初が弓師だったとか言われるが、ちょっと無理があるような気がする。それらの柄杓の違いは、もちろん風炉における場合だが、この違いを明確にするように扱いたがる人も居るかもしれない。前回の怡渓宗悦は、そのようにいろいろ小細工するのは嫌われる、と説いた。扱いの違いはどの流派にもあるだろうが、茶の湯の点前は目立ってはならないということは変わるまい。点前が美しいと思われるようでは、意識的に過ぎることだろうし、未熟ともいえよう。ただ、柄杓に湯水が入っていない時は、入っている時よりも少し高めに運び、同じにならないようにする点は解る。
茶席に、道具や料理とか点前や何かを目立たせ驚かすようなことであってはならない。あくまでさりげなく自然に心地よく、客に喜んでもらえるかどうかである。亭主や道具が目立ったり自慢したり、手がきれいだったりなどと言われるようでは、茶席のあるべき姿とはとても言えないだろう。
「無事是貴人、但だ造作(ぞうさ)すること莫れ、衹だ是平常(びょうじょう)なり」という言葉が臨在録にある。無事とは無造作であること、意識して作りだしてはならない、平常の意である、ありのままであること、禅でも茶道でも、何の計らいもなく自然に徹する人を最高の人とする、と説明される。卓越した物作りの技は、永年の修練を経て、無意識とも思える内に行われる、それを無事という。上手いなどと思われるような目立つ茶席は、恥ずかしいことでもある。茶席の掛物で、「無事是貴人」を拝見することは多いが。      (町田宗心氏の「茶の湯の常識」を参考)

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