お茶あれこれ257 2017.1209~1215

1. 北向道陳
青いままの堅い蕾だった藪椿の先が紅くなってきたと思っていたら、この数日の昼の暖かさのせいだろうか、花びらが伸びてきた。暮れに向かって、藪椿の蕾に色が着いてくると嬉しくなる。数年前に植えた有楽椿が、今年初めて蕾を付けている。京都では有楽椿と呼ばれるが、江戸で呼ばれた太郎冠者の名が本来らしい。

太郎冠者と言えば、狂言の滑稽味も含んだスーパースターである。元々冠者は、武家の従者や使用人の中での若者頭を意味していたから、そこから物語に合わせて多様な性格付けがなされ、多くの狂言を生んでいったものであろう。一重の花の形が、若者らしく愛でられたものかもしれない。白玉も侘助も、みんな同じ種なのだそうだ。淡紅色では乙女椿があるだけで、一重は無かったので楽しみにしている。勿論、京都では信長の弟有楽斎の名からきているのだが、名前が付くほど織田有楽は茶席に好んで使っていたのだろう。初嵐や侘助の白も、花はまだ残っている。


利休が武野紹鷗に学んだ茶の湯は、村田珠光から伝えられた小間の茶である。もう一人書院の茶を習った師は、北向道陳という。姓は荒木であるが、堺で生まれ医業をもって暮らしていた家が北向きだったので、北向と称していたと伝えられる。ほんとかなあ、落語みたいな話だけど。道陳は、大永2年(1522)生まれの利休より18歳年上である。道陳が35歳の時に、与四郎と呼ばれていた利休が茶の湯を習い始めるが、与四郎の天稟を感じて武野紹鷗に紹介する。時に、紹鷗は37歳であった。下世話な話だが、利休にとって二人の師はどちらがどうであったのか、もちろん書院の茶と小間の茶と違う様式ではあるが。古田織部が上田宗箇に語った利休の言葉がある。
「利休に紹鷗と道陳の数寄を、古織尋ねられ候。碁ならば、一目道陳つよく候はん由」

また、紹鷗が「紹鷗遺文」で道陳のことを書き残している。
「枯木カトオモエバチャット花ヲ咲カスヨウニ面白キ茶湯ナリ」室町以来の会所の茶が道陳の本来でありながら、書院の決まりきった茶ではなく、独自性のある感性に富んだ道陳の茶と、紹鷗は言いたかったのだろう。

この二点から、利休が道陳を一目上と言った理由がわかる。利休も織部も旧態を壊しながら、新たな視点で常に創造を具体化していった天才である。真似をする、習うという段階から、次の高いレベルへ移ることができた芸術家ともいえる。その眼から見て、道陳は同じタイプと考えたものだろう。素木(しらき)の釣瓶水指や春慶塗の紹鷗棚、竹の引切(蓋置)の創案など、改革や創造については紹鷗にも同じことが言えるが、利休の眼には道陳の方が常識を越えていたのではないか。室町の多様な文化の中で、珠光、紹鷗、道陳と変化と独創の茶の湯が生まれようとする時代であった。今も見られる「突き上げ窓」や「瓢の炭斗」は、道陳によって考案されたものである。ただ、道陳についての情報は、他の茶人に比べると少ない。せいぜい、道陳の茶室が西向きで陽の向きが安定していない、と言われた時に、茶事は朝しかしない、と答えたという話くらいである。

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