お茶あれこれ305 2018.0422~0505

1. 江岑夏書Ⅱ
浪花野茨の花が、開いてきた。暫く硬いグリンの蕾のままだったのに、この二日ほどの初夏のような天気に慌てて咲いたのだろう。野茨と言えば、蕪村である。蕪村にとって、花茨は原風景を象徴する花であったと言われる。甘く爽やかな香り立つ花は蕪村の郷愁でもあったのだろうが、浪花野茨の棘は尋常ではない。
それが世間の壁を意味していたともいわれる。「花茨 故郷の路に 似たるかな」
「路絶て 香にせまり咲く 茨かな」 「愁ひつゝ 岡にのぼれば 花いばら」
野茨にしては大輪の白い花たちには、蕾が開きかけた時から蜂が群がる。いつも決まってずんぐりした、お尻の黒い蜂が朝早くから忙しく飛び回る。西風が庭から生垣を吹き抜けるので、浪花野茨の香りは道筋に漂っていて、歩けば陶然となってしまう。

前回の話を続ける。「不立文字」は、本来禅宗の「文字や言葉では解釈次第で内容が変わっていく、真理は座禅や体験を通してのみ伝えていくことができる」という教義でもある。今の時代、茶人たちは禅師を掛け軸や箱書きほどの意味にしか感じてないようだが、禅宗と茶の湯が切り離せないことは、利休や織部の時代では当然の事であった。もっと言えば、禅寺と連歌から茶の湯は生まれたともいえよう。それは、能阿弥、一休、村田珠光、武野紹鷗あたりを少し調べてみるだけでわかる。
江岑宗左の言う「利休は書付を残さなかった」の理由は想像するしかない。

今時のお稽古事は、師匠が弟子たちを集めて教える。私どもにはないが、手引書も市販されている。利休や織部の時代にそんな指導などはなく、茶席や水屋や露地で五感を働かせ、点前も設えも道具も会話も覚えるしかない。だから、それぞれの茶の湯は、その人間性が明瞭に出ていたともいえよう。自慢したい者も居れば、侘びに徹する者も居ただろう。又それもあって、利休は書きものなど不要、己の目、耳、口、鼻と手で捉え、心と頭で構成していく、茶の湯とはそういう事である、だから世間で騒ぐような道具も不要、あるべき取り合わせは己の感性で新たに創造していけばいい、その感性は言葉や文字で伝えられるものではない、と思っていたに違いない。そこに徹していた利休の人を見抜く目があって、己の後継は古田織部と言ったのか。

利休が自刃した時、孫の宗旦は14歳。その日まで利休のすることを、宗旦はそばで細かく見ていたし聞いていた。直接接してきた宗旦は、利休の茶の湯に対する思いを、次に伝える使命を感じていたに違いない。そのことを、宗旦の手紙が示している。宗旦から主に江岑に宛てた、240通余りの手紙が編集された「元伯宗旦文書」という立派な本がある。江岑が唐津藩主寺沢広高に茶堂として仕官するにあたって、宗旦が助言した手紙が、その中にある。唐津藩寺沢家は、古田織部とも岡藩とも関りがあった。手紙の内容については次回に書くが、利休にまつわる多くの話を宗旦は江岑に伝えていったのである。宗旦に尋ねたりして教えられた利休の茶の湯を、五代随流斎に伝えるために、江岑は茶書として残したのが「江岑夏書」である。(以下は次へ)

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