お茶あれこれ3 2015.0221~

1. 村田珠光
「しゅこう」と読みます。次に予定する「武野紹鴎」は「じょうおう」と濁ります。
栄西が茶を持ち帰った(とされる)翌年1191年、頼朝が征夷大将軍となる武家社会が始まり、禅宗と茶が表舞台に出る。「吾妻鏡」に、栄西が実朝に茶を献じて、将軍がご感悦したとある。高価な薬として使われたのであろうが、将軍のお墨付きでもって、茶はそれまでの禅林から武士階級へ広がる。結果として、茶器や茶具足の流通が生まれる。

足利義満の鹿苑寺金閣に代表される北山文化から応仁の乱へ向かう。
和歌や物語、申楽から世阿弥の「能」や一条兼良や宗祇の「連歌」が生まれ、そこから善阿弥の「庭」、立阿弥・文阿弥の「立花(たてはな)」、村田珠光の「茶」へと広がる。「能禅一如」「茶禅一味」などの言葉も。

下剋上、戦国時代へと移り変わる中で、間仕切りの無かった母屋が襖や戸板で仕切られ、その空間で上下関係を示す必要性から、床の間の原型である「押し板」が生まれる。正面性の誕生。そこに「座敷飾り」が発展していく。軸物の絵が掛かり、三つ具足(香炉・花入れ・燭台)が置かれ、違い棚や付書院の書院造りから城郭、数寄屋、茶室へと変容する。

若い時、僧侶として奈良に居た村田珠光は、その後諸国を漂泊。大徳寺に参禅し、一休文化圏を知る。中国的な価値観を重視してきた従来の茶に対して、和様を持ち込む。万葉の時代からあった「侘び」の言葉は、当時も貧しい様子を意味していた。珠光は、それを美意識の対象にする「侘びのふるまい」にまで高めた。珠光が始めた「草庵の茶の湯」は、京の町衆に支持され、各地に広がっていく。また、それまで別室で点てていた台子の茶を、客の居る書院に台子を持ち込んで点てた。

珠光は、「和漢のさかいをまぎらかす」と言う。北山文化の「ものに対するおごり」を拒否したともいえる。「こんなものしかありませんが・」と詫びて、間に合わせのものを出す、これがそもそもの「侘び」の感覚。

いつから茶人たちは、家元や宗匠たちの箱書きや由緒深げな道具たちを自慢し合い、自作に自信のない職人や道具屋たちが寺に箔付けを頼んだような品を有難がる、そんな茶会を持つようになったのだろう。
「貧乏人の僻みだろう」と言われれば、はい、全くその通りです。

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