お茶あれこれ242 2017.1005~1022

1. 点前
「うめもどき」の実が色付いた。朱赤の色は、もう少し時が経って庭が晩秋から末枯れた色調になってくると、更に鮮やかに見えるだろう。白山吹と隣り合わせに居るから、この時期山吹の黒い実と並んでいる。山吹には実がないから、和歌が生まれたと思い込んでいる人も多いが、黄色の山吹には実は付かないが、白の一重には黒い実が付く。以前そんな話をしたが、今も時折、実はない話に出会う。間違いではないが、十分ではない。子どもの頃、庭のウメモドキに登って、揺さぶって遊んでいたら、手が滑って落ちたことがある。小さかったのだろう、庭を流れる井手(小さな水路・江戸期にご先祖が屋敷の外を巡っていたものを裏から庭に取り込み、曲がったり小さな滝を作ったりして流れていた)に落ちると思ったが、張り出したツツジの大株に受け止められ、助かった。昔、そのツツジを分けた小さな苗木を、母がここの庭に植えた。今、背丈よりも大きくなって、初夏に白い花をつける。

慶長17年(1612)の「僊林」という書に、濃茶を練る時の柄杓の話がある。一杓目は湯を少し汲み残さず茶碗に入れ、よく茶を練り、一旦茶筅を左に預け、二杓目は湯を適当なだけ入れて、戻す。後に、二杓とも湯を九分ほど汲み、余りを戻すようにもした、とある。今も最初の形で濃茶を練っているが、この話にはまだ続きがある。
「当世の茶湯とハ、宗易と云数寄者、むかしのくどきことを除、手まへかるく、手数すくなく、かんなる所ヲ本とす、茶わんにても、こきうすきの替をかんようにたてつれバなり、座敷のひろきせばきによらず左かまへなり、又道具ヲはこぶ事、ミな侘数寄の仕舞也、殊ニ茶のいきぬかすまじきため、ひしゃく大にして一ひしゃく立ル也」
簡単に訳すと、今の茶の湯とは、宗易という茶人が昔のくどい手順を除き、点前を軽く、手数を少なく、簡単にした、茶碗も濃茶・薄茶の取り換えも簡単に点てた、座敷の広い・狭いに関係なく左に構えた、又、座敷飾りをしないで、道具を運んで仕舞いとするのも侘び数寄であり、殊に茶の香りが抜けないように、大きくした柄杓で、一回で湯を入れて、濃茶を練った、と。
これは、以前にも書いたことがあるが、利休と織部の点前姿の比較が幾つか残されている。概して、織部は見どころも多いが、利休は自然体で、凡人の及ばざるところと言われる。大徳寺の怡渓宗悦は、子弟の差は明らかである、とまで言ったが、利休や織部の百年ほど後の人である。禅僧からみれば、無意識の利休に対して、織部は意識が働き過ぎると言いたかったのであろう。利休門下の茶人針屋宗春は、「織部が点前は立派で、今も目に付くようで忘れがたい」と語ったと「茶事談」に記されている。同時代の茶人の記録が「松屋会記」に残る。松屋久好が文禄4年(1595)織部の茶会に招かれた折、点前が詳しく記され、終いにこうある。「総別何モ緩々ト御サハキ候、如何ニモ目ニタゝス候也」全てゆったりと丁寧な捌き方で、殊更目立たぬようなお点前だった、とある。(町田宗心氏の「茶の湯の常識」を参考)

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