お茶あれこれ304 2018.0419~0503

1. 江岑夏書
大手毬の色が真っ白になった。小さな蕾の頃は、葉と同じように甘やかな若草色をしている。葉は緑がだんだん濃く鮮やかになっていき、蕾はかなり大きくなってから色は薄れて白に近付いてくる。一つ一つの花が開いて手毬になった時、真っ白になる。しばらくその姿のまま、夕風に幽かに揺らいでいたりする。
白いツツジが、いきなり満開になって驚く。蕾の時期は、うかつにも気が付かなかった。ありふれた何でもないようなツツジも、白い花をいっぱい付けると清々しい。
何と言ってもツツジの美しさは、尾形光琳の「躑躅図」だろう。右から張り出した岩陰の下に細く水の流れを配し、濃い炭色の岩を背景に白いツツジ、岩上の空間に赤いツツジ、左側は殆ど余白となっている。光琳の作品を思い浮かべると、主題の対比、背景の対比、簡略抽出された具象、と並べると、デザイン画の話のようにあるが、作品を見つめればひとつの写実である。すっきりと美しい。

「江岑夏書」を久し振りに開いて、気になったところがあった。「江岑夏書」は、表千家四代江岑宗左が、父宗旦から聞き及んだことを、五代随流斎に伝えるために書き残そうとしたものである。以前にも話したが、三百年以上外部へ出ることもなく、一般公開されたのは、実に昭和に入ってからであった。寛文2年(1662)に書き始める。途中、「卯四月十五日ゟ江戸ニ而書出し候」とあるのは、翌年茶堂を務める紀州徳川家頼宜公の参勤交代に随行して江戸に来ていたことになる。
二十三日の項を記す。

「利休流ニハ茶之湯書付無之候、たとへ休自筆ニ而被書候事万ニ一ツ在之共、其時節ニおよひ申事故、書付用ニ立不申候、其上書付一円ニ無之候、此書付ハ書申事ニハ無之候ヘ共、我なくさミニ思出事斗書申候、何もかゝれ不申事斗ニ而御入候、我等旦八十一斗在世故、茶之湯事細ニ相尋申、覚申也」
「利休流といっても茶の湯について書いたものはありません、たとえ万に一つ利休自筆の書付があったとしても、それは利休の時代の事ですから、今の時代の役には立ちません、それに利休自身が書いたものはどこにも全く無いのです、私のこの書付は後世に書き残すようなものではなく、私の慰みに思い出すような事などを書いてみただけのことです、別に深い意味もない事ばかり書いたかもしれません、父宗旦は八十一歳ほどまで生きていたので、茶の湯の事を細かに尋ねたりして覚えているものです」

「利休流」とは、現在三千家が伝えている点前や作法や茶の湯全般の事であり、「書付」とはその伝書と捉えればいいだろうか。勿論、江岑宗左が書いているのだから、利休から少安、宗旦までの口伝である。利休が自分で書いたものはないと言い切っている。利休と同時代に生きた山上宗二や古田織部など茶人大名たちの書き残したもの以外は、ほとんど伝聞である。これまでにも言ってきたが、利休が文字で残さなかったのは「茶の湯は不立文字である」と、厳しく言っているのだろう。(以下次へ)

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