お茶あれこれ234 2017.0902~0923

1. 灰屋紹益
秋海棠の白がやっと花を開いた。秋海棠は花の時期が長いので先月10日くらいに咲き始めたピンクは今盛りを迎えている。寛永の頃に中国から長崎へ来た。芭蕉に、「秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり」という句がある。おそらく、元禄の頃は未だ目新しい花であったろう。芭蕉は初めて見たのではないだろうか。埼玉県の山間の集落に群生地がある。今年、鹿にほとんど花を食べられたという話を聞いた。毎年、土手や林の中にどこまでも広く咲いていたのだが、花を見られないという。カタクリは、里山の草刈りや間伐の手入れをしないと咲かなくなるが、これはそんな話ではない。鹿やイノシシの問題は、表面上の捉え方では解決しない。ヒトと動植物を含めた環境保全と地域の存続は、話し出せば長くなる。

白まんまも小さく花を付け、紅白が揃った。タデである。水引も同じ種になる。幼児のままごとに使うだけで単なる雑草と見えるが、夏から秋の季節に茶花として一度は入れておきたい。小さめの何でもない籠に入れる。矢筈薄、藪欄、青の杜鵑あたりのちょうどいいものも合わせて使いたい。少し寂しくない、とよく言われるが、草庵の風情は足りないくらいに留めたい。侘びを意識し過ぎだろうか。

石塚修氏の著書「茶の湯ブンガク講座」を参考に、灰屋紹益の話をする。本阿弥光悦の甥の子で、灰屋紹由の養子になり家督を継ぐ。本名は佐野重孝、光悦と同じように、天才芸術家である。茶の湯、書、和歌、連歌、俳諧、蹴鞠など、京都の豪商、上層町衆の一人として、寛永時代の文化サロンを引っ張っていった。有名にしたのは、島原の花魁吉野大夫を、後水尾天皇の弟近衛信尋と争い、身請けし妻としたことだろうか。当時の花魁は、知性も教養も情報情勢にも詳しいスーパーレディだったが、吉野大夫は飛び抜けていたようだ。茶の湯、花、香道、和歌、連歌、俳諧、琴、琵琶、笙、囲碁、双六、何であれ客の好みに応じて楽しませることができたという。その上美しく所作も優雅、思いやり深く慎ましやかでとなれば、惚れない者が居ようか。灰屋紹益は茶の湯を千宗旦に、書は叔父である本阿弥光悦に、他も一流の指導者から本格的に学ぶ文化人であった。今お仕覆で目にする「吉野間道」は、紹益が吉野大夫に贈った打掛から名付けられている。「間道」は、明国から金襴や緞子と共に入ってきているが、当時意匠といい技術といい、染織業界に大きな影響を与えたことだろう。もともとは水滸伝に青と白の縞織と出てくるのが最初らしい。吉野間道は、平織りの地に真田紐を格子状に織り込んだ感じと言えば分かり易いだろうか。寛永8年(1631)に紹益22歳、吉野大夫26歳の時に一緒になったが、父灰屋紹由は遊女を身請けなどと紹益に愛想をつかし、勘当した。後には偶然の出来事と本阿弥光悦の言葉もあり、二人のことを許し勘当を解くのだが、吉野大夫は12年後に38歳で病死する。紹益は「都をば花なき里になしにけり 吉野は死出の山にうつして」と詠んで、吉野大夫を偲んでいる。次回、もう少し触れたい。

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