お茶あれこれ265 2017.1227~2018.0108

1. 古田廣計Ⅸ
先日、今年初めて蕾を付けた椿の話をした。有楽椿と思い込んでいるのだが、「袖隠し」と言う。毎月、家に園芸店がワゴンでやってくるが、私が相手をしたことはない。庭には、まだ花が咲いたことのない椿が幾つかある。植え替えるのは、私の仕事だが、細かく尋ねたりはしない。どこがどうなったのかわからないが、樅のそばの椿は有楽椿と思っていたし、初めて蕾を付けたと喜んだ。袖隠しなら、初夏の花になる、しかも大輪の八重である。茶花には、なるまい。面白いのは、名の由来だろうか。その昔、江戸城内に咲いていて、あまりに美しいので枝を袖に隠して持ち出した、或いは隠して持ち帰りたいほど美しい、などの話がある。肥後椿のように、庭で見る花ならいいのかもしれない。後日の話でも、結局有楽椿か袖隠しかはっきりしないことになった。今の蕾がどんな花になるのか、違った楽しみになった。

文化元年(1804)7月27日、古田中務は休翁の茶会に出ている。
「求馬野屋敷飛田之麟趾亭ニ而休翁茶差上に付中務儀御詰罷出候様被仰付、・・」
求馬というのは、前回話した家老中川久照のことである。三代久清公の男子の一人で、家老になった家筋になる。保全寺山に、久照の石塔もある。飛田は、現在飛田川と呼ばれる地域。野屋敷は野宅ともいい、もともと藩主の休憩所や立ち寄り所だったものを下げ渡したものだろう。その別荘の茶室は、麟趾亭と名付けられていた。休翁は、久照の父中川久敦の隠居してからの名である。ここは、家老久敦が隠居した後、麟趾亭での茶会に中務を呼んだ。黒田藩から返り伝授を受けたのは天明8年(1788)だから、この時期には家中に織部流茶の湯の復活が注目されていたのではないだろうか。何と言っても、利休と織部にまつわる話や道具は、伝説の茶人として200年間言い伝えられてきた。そんな話もゆっくり聞きたくて、隠居の元家老は中務に声をかけたのだろうか。同席しているのは、御用人横田藤右衛門、御小姓仲嶋熊五郎。

「休翁口切之御茶差上度段兼而申上有之則今日正午飛田麟趾亭之茶室ニ御入有之、此節茂中務儀御詰被仰付、・・・」同年11月28日のことである。休翁が口切のお茶を差し上げたいとかねて申し上げていた、今日の正午に席入りをした。客の御用人小泉勝重、御小姓佐曽利重英が、主な目的だったろうが、この節も中務に声がかかった。
御用人の小泉は、本来江戸詰めの家になる。江戸の粋人としての噂もあったのか、或いは江戸やお上の情報を聞きたいのが主だったのか、茶会記によく名が出てくる。
また御小姓の佐曽利も、熊田家の茶会記などにも名がある。この飛田の野屋敷は、百年余り前の元禄元年(1688)に中川久豊が拝領している。時代は下がって幕末、家老でありながら勤王の志士の一人として行動した中川栖山は、その子孫になる。栖山は、明治になって天草知事に任命されたりしたが、病のため明治4年に没している。その20年ほど後、この野屋敷は本堂を建立し、大秀寺として今日に至っている。

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