お茶あれこれ6 2015.0226

1. 炉
前回、風炉と炉について少し触れた、その続き。5月に摘んだ茶葉を11月初めまで壺に入れて、いわば醸成する。童謡にもあるように、将軍家へ献上する茶壺は大名行列と同じ、重要なものだった。お濃茶用は和紙の袋に入れ茶壺へ、その空いた所をクッション材として入れたものが薄茶用の茶葉。11月初旬、「口切」といい、茶壺の口を切り、新しく使い始めるので、口切の茶事を「茶の正月」ともいう。季節はちょうど時雨の頃、風の音、落ち葉や樫の実の落ちる音が聞こえ、露地や茶室の竹は、青竹に改められる。口覆(くちおおい)を掛け、口緒で結ばれた茶壺が、床の間に飾られる。この結び方にも流派があり、覆いを取る所作がある。

今は、11月初旬立冬(7~8日)の頃炉を開くようだが、織部は樅の葉が色付いたら炉を開いた。利休は「柚」の色付くのを見て炉を開くように教え、槿で知られる孫の宗旦は、吐く息が白くなったら炉を開けると言っていたらしい。自然の移り変わりに思いを持ち、月の満ち欠けとともに趣き深い暮らしこそがゆたかさとして、大切にされてきた。

茶壺の拝見が終わると、初炭にて炉に炭を継ぐ「炭点前」がある。草庵の茶は、幾人かの客が炉の周りで炭点前を拝見する。原始、囲んで見つめた焚き火には神聖かつ畏敬の念があっただろう。火には心の奥に達するような深い力が在るのかも知れない。火と炭には、そんな非日常の世界がある。

788年、最澄が比叡山に延暦寺を起こした際に灯した法燈は、途絶えることなく燃え続けることになる。やがて貴族文化の平安時代が始まり、山形立石寺へ分火される。後の元禄時代、芭蕉の句で有名になる立石寺の燈明は、信長による1571年の比叡山焼き討ちの後、延暦寺へ返ってくることになる。1200年以上にもなる途方もない永い年月を経てきた今も、朝夕菜種油を注ぎ足し、この火は護り伝えられている。「火」は単なる熱や明るさを出す道具ではない。文字通り、「油断」することなく伝統を受け継ぎ、猿真似ではなく、己自身の感性を磨きながら、引き継がねばならない。

2. 写し
単なるコピーのように見ることが多い。真似ただけのイミテーションではない。「本歌取り」という。有名な「風神雷神図屏風」は、17世紀の俵屋宗達、100年後の尾形光琳、さらに100年後の酒井抱一、鈴木其一など、全て逸品である。焼き物にしてもそうだが、「写し」から「本歌」の存在を見る。一流の写しは、本歌の宿る依代でもある。

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