お茶あれこれ205 2017.0612~0623

1. 岡藩と人吉相良家
鬼灯(ほおずき)の実が少しずつ大きくなっている。色は未だ葉と同じ緑なので、ちょっと見つけにくい。じつは、平仮名でどう書くのか迷った。本来「ほほつき」と書いていたのではないだろうか。平安の昔から、口の中に入れて鳴らして遊んでいたことを考えると、「頬」(ほほ)を「突く」から「ほほづき」となるはずなのだが、「づ」ではなく「ず」でないと「鬼灯」は出ない。で、逆に漢字を入れて、仮名を確認したら、「ほおずき」となった。う~ん、納得できないなあ。
先日友人から、「泰山木」の花をもらって帰った。友人宅は、岡藩時代からの医者で立派な古い屋敷である。いつの頃からあるのかわからないが、2本とも大きな木なので花が見え難いのか、いい匂いがしてきたから、咲いているみたいですよ、と知らせてくれた。高枝切り鋏をもって、出掛ける。毎年、ありがたいことに恒例になった。床に飾ると、家中に芳香が漂う。ただ、花が大きいので、花入れを選ぶ。

不白と岡藩の話は以前にもしたが、安永9年(1780、この年に古田廣計は本家の養子になっている)、山手に淵野臨川は茶室を建て、「雪積千山孤峯不白(花押)」と背後の絶壁に6m余りの長さで彫り込ませ、更にその傍らに彫り込んだ三日月の形に灯明を入れて浮かび上らせ、楽しんだ。のちに茶室は岡藩御用達、豪商茶人加島冨上が買い取る。そこに新たに建てた別荘「洗竹窓」に頼山陽が訪れたのは、文政元年(1818)であった。この辺りは、以前に話してある通り。

文化4年(1807)田能村竹田は京都において、村瀬栲亭や上田秋成と茶事談義を重ね、南禅寺に秋成を足繁く訪れ、売茶流煎茶を学び、岡藩文人の間に煎茶を広めた。文政10年(1827)に「煎茶譜」、文政14年に「竹田荘茶説跋」「竹田荘泡茶訳」の著作を残している。前回、竹田荘の織部灯籠を見た話をしたが、織部灯籠と言えば、江戸初期、肥後人吉城下に幾つも建立されたという。

古田織部が引き取った娘「せん」が鷲尾大納言に嫁ぎ、娘を二人持った話はした。娘は養子をとり、その鷲尾隆量の娘が吉川広嘉に嫁ぎ、もう一人の娘は相良遠江守頼寛の妻になる。織部灯籠は、相良家の別邸「お薬園」の茶亭、中尾山清明寺、臨済宗天真寺、真言宗願成寺、観音院などの境内、や武家屋敷に建てられていた。その織部灯籠は、京都大徳寺高桐院に置かれた、織部考案の灯籠と形式や石質が同じである(人吉・種元氏著書による)。高桐院には茶人大名細川三斎の墓がある。細川家は、江戸期に豊前から肥後へ移封された。細川家茶堂の一人に、三斎の嫡男忠利が小倉から連れていった古田重府が居る。重府は、織部の実の弟になる。今の人吉市に、織部流茶の湯が残っているかどうかはわからないが、江戸期には、古織伝が相良藩に根付いていたのではないだろうか。人吉藩相良家二代頼寛の夫人だけでなく、三代頼喬の夫人も鷲尾大納言の娘である。古田織部の娘が嫁いだ鷲尾大納言家、そこから夫人が出ている肥後人吉藩相良家、織部灯籠、肥後細川家、そこに何があったのだろうか。

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