お茶あれこれ12 2015.0313

1. 書院と小間Ⅱ
織部、遠州、上田、鎮心などは武家茶の流れを汲む書院の茶の湯で、三千家などは小間の侘び茶と思いがちである。織部にも小間の侘茶はある。それは、式正茶法と名付けられた書院茶とはかなり違っている。

三千家の茶の湯に「七事式」という、点前と言っていいのかわからないが、遊戯性高く、画期的な習い事がある。六代覚々斎は、町方への普及を図る。もともと表千家は、紀伊徳川家の茶頭をしており、代々特別な間柄となっていた。しかも八代将軍吉宗の享保(1716~1736)の時代と重なる。大財閥三井家のルーツも紀伊徳川につながる。
町方への普及の中心をなしたのは、三井家などの富裕商家であった。
普及への方針変更に加えて、家元制度を立ち上げ、ここで地盤は確立する。七代如心斎は弟二人が裏千家七代、八代家元でもあり、七事式は大流行する。これは5人一組になって、楽しみながら手順を覚えていくものである。「花月百篇おぼろ」などと言われるように、かなり難度の高い習い事という。これが実は八畳広間を使う。四畳半の小間に鍵の手に通路部分が付いたと考えればいいかもしれない。競い合ったりもするゲーム感覚と言えば、そんな軽いものではないと叱られようが、茶の湯修業を積んだ人たちの更なる高みへ達する道である。

当時、元禄から享保を経て文化文政に至る時代は、最も江戸文化の芳醇な時であった。茶の湯が上流階級に広まった一因に、七事式によって、その面白さが一段と深まったことにもある。ここから千家の茶の湯は、広間が主流になっていく。江戸は何度か大火に見舞われるが、建て替えられる茶室は草庵から広間へと移り変わったものが多い。
なぜかそれにつれて、茶の湯は流行っていったようにある。
茶室の広さは、座り方の移り変わりにも及んだ。室町期の広間では、「安座」という胡坐(あぐら)やその変形(足裏を合わせる形)で茶をしていた。利休前後の四畳半以下の小間の茶室が主流になるにつれ、「立て膝」(能や狂言にみられる)になる。部屋が小さくなっていくと、座り方もコンパクトにならざるを得なかったのかもしれない。
「正座」になった理由は定かではないが、元禄から享保の時代に、女性が茶室に入るようになってからのことではないか。女性と言っても、茶室に入れる女性は大名の奥方、側室、お局など限られていたし、男は変わらず、立て膝だった。正座が当たり前になったのは、明治以降、女性対象の茶道教室に頼らざるを得なかった社会状況に依ろう。

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