お茶あれこれ258 2017.1212~1219

1. 江岑夏書Ⅴ
今日はかなり寒い。会津の山々を思い出すと、とても言えないのだが寒い。隙間風が通り抜ける昔の家に暮らす友人に、この寒さ大丈夫かと尋ねたら、いっぱい食べて少しだけ仕事して「コタツむり」している、と返事が来た。笑った。

それでも、去年蹲の水が凍って盛り上がっていたほどの冷たさには、未だ襲われていない。花が無くなり、藪椿が床に入れてあった。薄暗い床に曽呂利が溶け込み、この深い濃紅だけが際立って浮かび上がる。蝋梅を入れたかったらしいが、蕾も見つけられなかった。庭の蝋梅もだが、いつもよく見るお寺や陽だまりの木も、当分先でないと使えないような、硬い小さな蕾だった。


江岑夏書の中で、竹の蓋置は少庵が初めて使い、京の町衆が驚いたと紹介した。同じ江岑夏書に竹の蓋置は利休が初めて作ったともある。この二つを成り立たせるためには、作ったのは利休だが、初めて使ったのは少庵である、となるが、どうなのかねえ。前回、北向道陳で竹の引切は武野紹鷗に依る、と史料から引いた。さて、私たちでは判別し難く、専門家に委ねるしかない。歴史によって曲げられることもあれば、利休を神格化したかった事情もある。その辺りを考慮に入れて、史料を読み解かねばならない。織部の名前も出てくるが、濃茶の話を原文で引いてみよう。

「こいちゃのふくの事、利時分ニハ、今時ノふく也、織部時こくねつちきるようニ立候、今ノふくうすきと申、旦ハ一代、利時のことく立被成候、こくはやり立候時もうすく御座候」

「ねつちきる」が辞書で捜せないのだが、「ぶっちぎる」という言葉を考えると、「練る+ちぎる」でどうだろうか。通して今の言葉に訳してみる。

「濃茶の服加減のこと、利休の時分は今時の服加減と同じです。織部の時代にたいそう濃く練るように点てました。今の服加減は薄いと言います。宗旦は一生、利休の時分のように、薄く点てなされました。濃く点てるのが流行っている時も、薄く点てたものでした」という風に、宗旦から聞いた江岑宗左は、随流斎に書き残している。

今の私たちの織部の濃茶は、千家のお濃いよりかなり薄い。式正の各服点ても草庵の回し飲みも、べったりと茶碗に残るような濃さはない。宗旦が全くのウソを言う訳もなく、またその必要もない。古田織部は自刃し、織部流の茶は多くの大名の意識に残っていたとしても、徳川政権下では表に出せなかったであろう。現に、伊達家では織部の弟子であった伊達藩茶堂に石州流を習わせている。では、宗旦の言うように、織部の濃茶が利休よりも「練っちぎる」ほど濃く練られていたのなら、茶の練り具合はどこかで変わったのか。織部の弟子たちだった大名、武家、公卿、豪商、町衆たちの茶も、いろんな流派の茶に呑み込まれ、文書は残っても感覚の領域は失われていったのか。点前所作や古織伝は、引き継がれていたとしても。200年後に、博多黒田藩から岡藩古田家へ織部茶の湯は返り伝授され、各地に残った織部流を確かめながら再構成した茶法も、茶の濃さに対する疑問は無かったのだろうか。

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