お茶あれこれ232 2017.0820~0917

1. 安国寺肩衝
金水引が幾つか、ポツンポツンと咲いている。まだ少し早いのだろう、あちこちに増えたものが、はびこる程には咲いていない。10日程経って、いつの間にか庭の至る所に黄色の花穂が藪欄と競うように立っている。金水引と言っても、紅や銀水引とは別種になる。古来、若葉や若芽を和え物やお浸し、汁の実にしてきた。漢方薬に詳しい人なら龍牙草とか仙鶴草としてご存知だろう、止血、下痢止め、口内炎などの生薬として使われ、入浴剤としても疲労回復に効果があるとされる。 
俳句にはあるが、万葉集や古今集には見当たらないところからすると、新しいものかもしれない。好きな花は白と青なのだが、黄は如何にもいいことがありそうで、庭に欠かせない。それとも歳をとって、何やら甘くなったのだろうか。

ちょうど1年ほど前、「お茶あれこれ121」で「安国寺肩衝」の話をした。細川三斎が、無理を承知で取り戻した肩衝なのに、今は細川家の永青文庫ではなく五島美術館に収蔵されている。その謂れを調べたかったが、一年経ってしまった。
元々は「有明肩衝」と呼ばれ、秀吉が所有していた大名物である。「あれこれ92」で、細川忠興が窮地に陥った話をした。秀吉の謀略と思われる、秀次の謀反事件である。秀次の家老である前野長康・景定親子も切腹しているが、景定は細川忠興の娘御長の婿になる。御長は辛うじて出家させて逃れた。秀次からの借金と連判状へ名を記してあることで切腹も覚悟した忠興だが、家老松井の奔走で助かった。その時、秀吉から拝領したのが「有明肩衝」である。この事件で良識ある大名たちは、秀次を擁護して秀吉に睨まれた。茶道長問織答抄の浅野幸長も能登に配流されている。この事件は、石田三成が絵を描き、溺愛する秀頼を後継者にしようとした秀吉が、愚かにも支えていくはずの近親者たちを逆に排除し、能力の高い大名たちを徳川方へ向かわせた結果になった。関ケ原の戦いの伏線でもあるが、ここでは茶入の話である。この有明肩衝を、忠興は安国寺恵瓊に譲ったところから「安国寺肩衝」と呼ばれるようになる。
恵瓊は安国寺の僧侶でもあるが、実態は毛利家の外交担当参謀と言った方が当たっている。だからこそ、忠興は茶入を譲ったか、その理由は知らない。

関ケ原の戦いの軍議で、家康は機嫌が悪く、誰もが口を閉じたままだった。いよいよ家康は不機嫌になるばかり。津田小平治秀政が「三成を破り、安国寺恵瓊の茶道具を没収し、あの肩衝茶入を賜れば茶会をいたしましょう」と軽く申し上げると、家康たちまち機嫌を治し、「約束しよう」と。で、「121」の話になり、忠興の手に戻って、「中山肩衝」と呼ばれるようになった、というのだが、少し違う話は次にしたい。

三斎は、帰宅後黄金200枚、時服一領、酒肴を添え、詫びて譲渡を願った。津田は笑って了解したが、黄金は受け取らなかった。三斎は、津田家の為に一寺を建立する。寛永3年(1626)細川忠利は小倉藩一帯の旱魃と飢饉のために、黄金1800枚で茶入を庄内藩に売り、救済資金にした。江戸の三斎は言った、忠利の茶も上達した、と。

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