お茶あれこれ204 2017.0607~0622

1. 岡藩の茶Ⅱ
植木古田さんから、花をいただいた。ほぼ400年前に造営された中川公のお茶屋は、「お野宅」と呼ばれ、狩りや道中の休憩所であった。この数千坪のお屋敷が、古田家である。確かに、県道が通ったり、会社や住宅が建ったりしたから規模はかなり小さくなったとはいえ、とにかく広い。その上、奥様は気前もいい。
で、今日は姫甘草、紫露草の白、松明草、半夏生、など、いただいた花をとにかく植えた。ちょうど半夏生も欲しかったし、松明草も今ある所に植え足した。
来年が、楽しみである。が、露地か茶花園か、多少問題ではある。

前回の続き。「佐州流」については、不昧流ほど有名にはならなかったが、古織傳、遠州傳の茶法に四代久恒が工夫を加えた茶法であると自負したところであろうが、岡藩の茶として引き継がれたかどうかはわからない。三代久清公は、大形組(現朝地町)普光寺に御茶屋、朽網(現久住町)七里田温泉御茶屋、同じく長野組に御茶屋や葛淵御湯屋を建立。長野組の温泉は殊の外気に入り、長野まで行けない折には岡城まで温泉を運ばせたほどである。四代久恒公は、菅田組(現大野町)三木御茶屋、十川観流亭茶屋、朽網七里田御湯屋を建立したが、50年程後八代久貞の時、これらの御茶屋は次々と壊されていく。更にその60年後、古田廣計は参勤交代に休憩していた三木御茶屋の跡を拝領する。廣計が隠居暮らしの中で、茶の湯を楽しみ、山野の散策とともに歌を詠み、屋敷で不染斎随筆を書き続けていくことになるのは、後の話。

四代久恒公の佐州流については、阿部氏の記事によれば「明和年間(1764~1771)に仕えた永津玄佐、宮原宗羽が、茶事流儀の名目はなく御流儀と計り唱え、唐もの盆だて台天目などの茶法も悉く其の先輩の御茶道より伝授して覚え居たり、茶事の覚書絵図類も彼是ありて、もし流名を問へば佐州流と答ふると謂ふ」と、古織伝茶法が主体であったことを物語っている。
三河(現愛知県豊橋市)松平家から迎えた八代久貞は、宝暦年間(1751~1763)に急激に大名から商家まで広がり始めた江戸千家不白の門に入る。将軍家茶道指南である不白流に入ったのは、老中就任の野心を燃やした久貞の思惑であったろうが、不白と久貞が殊更親交が深かったことは以前に話した。「不白筆会記」天明6年(1786)には、客組筆頭に修理太夫(久貞)が記されてあり、「不白年譜」安永3年(1774)には、久貞の年賀に得入(楽家八代、この年に30歳で亡くなる)に命じて亀の香合を作らせ贈っている。久貞は余程不白に惚れ込んだのか、家臣の入門を奨め岡藩の茶堂安藤不達は「不」の字を許され藩内に不白流を広めた。田能村竹田も、不達に茶の湯を学んだ。数日前にお客様方を案内してきたばかりだが、竹田荘の屋敷内には煎茶と抹茶の茶室があり、蹲の奥に織部灯籠が立っている。また庭に「孤峯不白」の拝塔も建てられている。頼山陽が来て泊まった二階も、往時のままである。

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