お茶あれこれ264 2017.1226~2018.0106

1. 古田廣計Ⅷ
先日「美吟」を買って帰った。酒は東北が美味いが、これも国東の銘酒である。純米吟醸の中でも、これほど上品な酒は少ない。萱嶋酒造という造り酒屋が、竹田に焼酎の小さな醸造所を造った。銀鼠(ぎんねず)の和瓦を葺き、板塀で囲い、高さを抑え、前庭の隅に木を植え、反対側には水を通した小さな庭のある、岡藩時代の商店としての構えをしてもらった。城下町に似合った、いい雰囲気の店である。今朝、新酒が来ましたと言われて、つい買った。酒よりも、酒粕の方が好物なのだが。石川桂郎に「粕汁に あたたまりゆく 命あり」という句がある。石川桂郎は、杉田久女に俳句の入門をし、小説は横光利一に師事した。難しい句はなく、軽妙洒脱な句風は取り付き易いが、人間は難しかったともいう。東京出身で、後半生は鶴川村(現在の町田市)で暮らした。木枯らしや雪模様の日には、粕汁にふうふう言いながら身も心も温まりたくなる。アツアツの粕汁の椀から大根を口に入れる、冬は食べる幸せを感じる季節でもある。そんなひと時を持てることに感謝する。

享和3年(1803)11月1日、江戸上屋敷において中務は明日江戸を立つことを申し上げ、藩主久貴公から直接羽織をいただいた。伏見を通行する時、京都へ回り先祖の墓に詣でること、大阪よりは中国路を下ることの許しもいただいた。久貴公は、前年初めて岡へ入り、翌年の閏正月には、鹿狩り演習を保全寺山において行っている。

「保全寺山」は、小富士山頂から少し北東に行った峰になる。白滝川を挟んで岡城と向かい合う片ヶ瀬の背後に、小高い丘がある。岡城北面の大船山にある、三代久清公の御廟と向かい合って城を守護する、吾が亡骸は南の小富士山に埋葬せよ、八代久貞公は寛政2年(1790)亡くなる前に言い残した。その峰の一つが、保全寺山である。久貞公と夫人お久の方の墓碑のあたりは、きれいに整備されている。また久清公の嫡男以外の男子たちの墓碑も、幾つかここにある。樫や椎などの雑木林の中に降り積もった落葉、夏は草に覆われるであろう、崩れかかった石垣、苔むした石塔、そこには300年の時の流れがある。この山は、中川家のお留山でもあったのだろう。

天和2年(1682)久清公の隠居領を分割し、子どもたち四家が老職となった。長兄の四代藩主久恒公を助けていく弟たちの中でも、求馬久豊、その子久虎は優秀な家老であったようだ。百年後、この家筋に中川久照という家老が表れる。古田家文書に、求馬という名で出てくる。その父は、中川久敦といい、隠居して休翁と名乗っていた。家老中川久豊家の石塔、八代藩主久貞公、鹿狩りをした十代藩主久貴公らが、史料の中で小富士山につながる、古田廣計はその関りの中にいる。

11月2日江戸出立、16日大阪着、12月10日豊州着。大阪までは、京都興聖寺に寄って織部の墓前に線香を手向けただろうが、それにしてはいつもより早く着いている。

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