お茶あれこれ261 2017.1219~1223
1. 露地
最近、花は椿と山茶花くらいしかない。藪椿は、小気味よく落花する。
山茶花はどうもいけない。色褪せた花びらが反り返って、枝にしがみついた様が嫌で、数日おきに花を取っていく。土にかえればよいとツツジの下あたりに撒く。
「落ちざまに 水こぼしけり 花椿」と詠んだ芭蕉を追い続けた蕪村は、17音の内10音まで同じながら、「椿落ちて きのふの雨を こぼしけり」の句を作った。
和歌にある本歌取りとは少し違う感じであり、オマージュと言った方がいいだろう。瞬間を切り取る芭蕉の天才に対して、蕪村の映像はそこに至るまでの物語を想像させる天才である。どちらがいいか、ではない。勿論、好き嫌いは、あるだろう。
7月8日の江岑夏書に、
「古の路地ニハ松、かしの木、かなめ、ひさゝ木、すゝき、か様ノ木のたくい、
竹、もミハ織部ゟ植申候、路地之つくり様、格別つくり庭のことくニいたし候」
昔の露地には、松、樫の木、かなめ(モチノキに似て扇の要に使うことから・生垣に紅カナメモチがよく使われる)、ひささ木(馬酔木ともいうけど、よくわからない)、すすき、このような木の類を植えました。竹や樅の木は織部の露地から植えるようになりました。露地の在り方は、格別に庭師の手の入った庭のようにするものです。
樅の木については、以前「あれこれ」でも、僧正が谷で樅の木の葉が降り積もった古びた風情を織部が気に入って植えた話をした。江岑夏書当時、織部が亡くなって50年ほど経っているが、樅の木のある露地はよく知られていたのだろう。また織部が伏見の屋敷に植えた竹は、藤堂家、尾張徳川家と屋敷の主が変わっても言い伝えられ、後世になっても茶人たちが織部の植えた竹と言って、欲しがる人が多かったという。茶庭としての露地は、時代によっても人によっても変化はあるものだろうし、決め付ける必要はないと考える。ただ、宗旦の言った「格別つくり庭の如く」という露地と、利休の露地とは、違いがあるような気がする。宗旦の言わんとする真意を私が捉えきれないのだろうが、宗旦の言葉に技巧的な意味を感じてしまう。
利休は、技巧を排除した自然の景観を、露地に求めたのではなかったか。景色よりも飛び石など茶室へ渡る筋を重視した利休は、観賞用ではなく、また個別の木でもなく、茶室に至るまでの連続を、さり気ない手入れで植栽を整えていたと思われる。宗旦は、利休を間近に見てきた孫であり、「乞食宗旦」と呼ばれるほど栄達を求めず清貧の茶に生き、利休の茶の湯を理想として生涯を通した茶人である。それだけに、利休とのズレに違和感がある。それは、私の力不足ゆえに捉え方が不十分なのではないかと、情けなく思うところでもある。南方録に、利休の「露地は只 うき世の外の 道なるに 心の塵を 何ちらすらん」の言葉がある。露地というのは俗世間とは切り離した世界なのだと言い、自然の趣の中に身を置き、清浄な水で清め、茶席に入る心を準備していく、そんな空間であると。おそらく、宗旦も同じことを思っているに違いないのだが。
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