お茶あれこれ233 2017.0901~0920

1. 小夜左文字
白い萩が咲き始めた。腰掛から見ると白しか見えないが、中程から奥へは、宮城野萩が点々とあり、紅白に咲き乱れる。いつも吹いてくる西風に、枝垂れた花は抗うでもなく、ゆらゆらとそよぐ。時折の強い風は、名残の萩を吹き散らすように、苔の上にこぼして通り抜ける。久住の里にあった萩を読んだ母の歌がある。

「しとどなる 雨にぬれたる 白き萩 おきなおりては 花ふりこぼす」
秋の長雨か、この数日雨が続く。母の詠んだ萩は、20年程前からここにある。

前回の違った話である。確かに茶入の話には、西行の和歌からのエピソードとして面白いし、三斎ならばありそうな話である。混同されたのではないか、あるいは脚色されたか、との話もある。実は、飢饉を救うために売られた名品がもう一つある。
脇差「小夜左文字」という。言い伝えと、後に鑑定に出した本阿弥家の覚書がある。鎌倉時代の刀工筑前の左文字による短刀は、今重要文化財になっている。

幼子を抱え、暮しに困った母が亡き夫の形見である左文字の脇差を売りに出た。途中、小夜の中山峠(静岡県掛川市)で盗賊に切り殺され脇差も奪われた。母の妹から常々聞かされて育った男の子は、敵を討つために掛川の研師に弟子入りする。いつか敵は研ぎに来る、と。年月は過ぎ、研師としても成長した男の前に浪人がやって来て、問わず語りに昔話になる。研師は脇差を見ながら銘を確かめる、古くはあるが刻まれた筑州住と左は読み取れた。来た、やっと会えた、父の形見と母の仇にやっと巡り会えた。はやる気持ちを抑えながら、柄(つか)を戻し、その左文字で敵を討った。話を耳にした掛川城主山内一豊は、研師を召し抱え、脇差も献上された。話は逸れるが、掛川城主ということは関ケ原の戦い(1600年)以前のことになる。前回豊臣秀次の話をしたが、山内一豊は秀次の老職として共に領地を移り変わりして、掛川城に居た。秀次謀反事件のあおりで、豊臣を離れ徳川に付き、津田秀政と同じく軍議評定の場で、掛川城を徳川軍進撃の為に全面的に用意する、と言い切り、その場を動かした。更に浅野幸長や周辺大名たちもまとめ、関ケ原の後、土佐20万石大大名へとなる。
脇差左文字を山内一豊が手にした後、当代一流の歌人でもあった細川幽斎は懇願の上譲り受け、その話と場所から、西行の和歌の一節を取り、「小夜左文字」と呼んだ。
「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」(新古今集)
京都本阿弥光甫の覚書によれば、幽斎から三斎に、その後忠利へと小倉藩に伝わる。
後に寛永3年(1626)の大飢饉の折、前回話した肩衝茶入と共に、この「小夜左文字」も売却した。小夜左文字は黒田家、浅野家、土井家に伝わり、寛文5年(1665)本阿弥家に鑑定に出し千五百貫の折り紙が付いた。違った話というのは、「小夜の中山」は、この脇差の話ではないか、という。茶入は、庄内藩主から幕府へ献上され,大正時代三井物産初代社長益田鈍翁の弟が落札し、今五島美術館にある。

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