お茶あれこれ226 2017.0811~0828

1. 中川重治Ⅵ
蓮華升麻が咲いている。50センチ程の背丈の先に付いた蕾は段々大きくなるが、グリンの球のままである。花は、下向きに咲く。だから、通常では花の美しさは見えない。かがみ込むか花を上に向けてやると、ありがたい花の形に、思わず息を呑む。白い花びらのように見える、あれは萼(がく)なのだろうか、正に「蓮の台(うてな)」のように重なり開いている。その中に、先端が紫になった白い筒状の花が立つ、なぜか見ているだけで敬虔な気持ちになりそうな花である。

前回、中川内匠高久の話をした。この時(1649)内匠は49歳、甥になる藤兵衛重治は37歳、父重直と母小長は57歳。「あれこれ194」に書いた話になる。38歳で亡くなった紀州藩主浅野幸長が、古田織部に孫の吉千代(後の高久、1歳から11歳まで伏見の古田屋敷で一緒に暮らしている)を千石出すから浅野家家臣にくれと頼んだ。茶人大名浅野幸長は、上田宗箇を一万石という大名扱いで紀州に迎えている。家臣たちは反感を持ったし、文武両道に秀でた茶人大名でもあった上田宗箇を「万石の茶坊主」と皮肉った大名たちも居た。織部の孫を家臣にしたいという幸長は、まさに茶の湯文化を基盤に据えた地域造りを考えていたに違いない。もちろん、織部がまだ将軍家茶堂になっていなかったとしても、その大いなる力を利用する思惑はあっただろう。だが、浅野幸長は、その程度の殿様ではない。関ケ原と大坂の陣の狭間の時期にも関わらず、単に武道や軍事力ではなく経済や文化、芸術の力を予感する先見性があった。宗箇を仲介に幸長の質問を織部が答えるという「茶道長問織答抄」は、幸長が茶人だったというだけではなく、両家の伏見屋敷が歩いていける距離にあったからこそ、頻繁に問答ができたものと思われる。織部の屋敷は下板橋、幸長の屋敷は現在の桃山町JR桃山駅の西側にあった。残念なことに、幸長は慶長18年(1613)、織部より先に38歳で亡くなり、その後上田宗箇は苦労多い道を歩むことになる。吉千代は、その前慶長16年に岡藩に帰り11歳で中川家家臣となる。時の藩主は、5年前織部に、吉千代は戦死した家老重則の子、他家へ出すわけにはまいらぬ、浅野家ほど高禄は出せぬが、中川の大事な家臣である、と断った豊後岡藩初代藩主中川秀成。その秀成も、翌年42歳で亡くなる。内匠(吉千代)は、二代藩主久盛の7歳下になる。重治は、この年に生まれた。若き家老中川藤兵衛重治と叔父中川内匠は、久盛を支え抜いて尽くしたことに違いない。唐津から帰った後も藤兵衛重治は、度々今市へ上使の接待に出かけている。肥後への行き帰りの上使には、ご馳走するのが習いだったのだろうか。その間に江戸在番の為、半年留守にしているし、承応4年(1655)には、異国船対策に鉄砲頭五組鉄砲百丁を組織し、長﨑奉行や肥後御目付に伺うともある。その後、府内に使者に立ち、今市に接待に出かけ、長﨑にも出張っている。又江戸城本丸石垣普請に出かけたのは、万治元年(1658)の事。3月16日岡出立、20日鶴崎三佐港出航、4月6日大坂着、24日江戸着。この時は翌年の8月19日まで江戸詰だった。

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