お茶あれこれ245 2017.1020~1030

1. 古田廣計Ⅱ
もうどれほどになるのか、雨が降り続く。その上、超大型の台風が接近中という。この2週間、雨の止んだ日はない。庭は、諦めるほかない。背の高い花たち、秋明菊や藤袴、杜鵑たちは、野分の跡のように倒れている。ほとんど水溜りのような庭に、落ち葉が何の風情も無く散り乱れ、家の前の道に濡れ落ちた桜の葉も、気になるのだが、仕方がない。ただ、雨が上がるのを待っている。少し早いのだが、今年も初嵐が開き加減である。侘助も早そう。藪椿の蕾は、まだまだ固い。

天明5年(1785)「三月廿一日左馬允義豊州出立五月十三日江戸着」とある。江戸詰めのため、岡藩を出て初めて江戸に向かった。なぜかわからないが、50日以上もかかっている。参勤交代で、35日くらいである。年齢がいってからは、伏見の元織部屋敷や興聖寺や大阪蔵屋敷や山片屋によく立ち寄っているが、若い時はそんな余裕は無かったと思われる。記述は見つからない。8月朔日(ついたち)に江戸城大広間で「御太刀献上之御使者」として「御奏者青山大膳亮様江目録御直ニ御渡申上」、幾つも「御」が付くので読みにくいが、太刀献上の使者役として江戸城で奏者番に目録を直接手渡したとある。晴れがましい、ちょっと自慢のところだろう。青山大膳亮は、美濃郡上(岐阜県郡上市八幡町)藩主で若年寄として、松平定信の寛政改革に協力している実力者である。11月には、それまでの由学館世話役から文武両館の副頭取となり、惣(総に同じ)頭取中川平右衛門に追々引き立ててもらうよう、と仰せ付かる。平右衛門は、岡藩時代を通して四千石の筆頭家老だった田近家の当主である。この時、古田左馬允は29歳。天明6年正月2日、8月と同じように江戸城で太刀献上の使者になる。渡した奏者番板倉左近将監は、備中松山(岡山県高梁市)藩主で、当時寺社奉行を兼任、松山藩では藩校有終館を創設し、人材育成に力を注いでいる。
2月5日江戸を出立、3月10日に岡藩に帰着した。帰りの日数が参勤交代と同じくらい、ということは途中ゆるゆると楽しみながら帰ったか、船の風待ちにしばらくかかったか、そのあたりの記述はない。帰る前日4日に御奥において御奥様より和歌の短冊や細工物を頂戴した。天明7年2月、左馬允の名が若殿(九代久持公)と重なるので変更、壱岐となる。久貞公の姫君が亡くなり、「御遺物拝領仕」り、狩野周信の三幅対(中は陶淵明、左右は花鳥)をいただく。狩野周信は、徳川幕府奥絵師四家の内木挽町狩野家三代、徳川吉宗の指導をしていた。日本に残っているより、ボストンやメトロポリタンの美術館に収蔵されている方が多いともいわれる。天明8年正月11日、経武館の完成祝いに麻裃と小袖をいただく。御奥様へ詩歌集を差し上げたところ、御酒頂戴し、2月朔日には「御奥様御自作竹二重切の御花入頂戴、御自筆にて御銘曲岸と有之」「御自作の青楽桃ノ香合、川上不白箱書附、岡候夫人作ト」年賀の挨拶に詩歌集を差し上げ、翌月に藩主夫人の作った竹花入銘「曲岸」と青楽の桃香合(不白の箱書付き)を頂戴した。奥方もすごいです。

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