お茶あれこれ263 2017.1222~1231

1. 古田廣計Ⅶ
植栽部分の苔と砂利の路地の境は土が表れている。霜柱が立つような時期に掃くと、霜柱が土と混ざり合い汚くなる。砂利路地は、腰掛から蹲を過ぎて、三和土の階段まで緩やかに曲がっている。苔の方は、植栽に合わせて出入がある。そのため、土の面が広くなったり狭くなったりする。どちらにしても狭い庭だが。

11月に松の手入れの時に取っておいた松葉を、苔と砂利の境をする地面に敷いた。古田織部が口切の時に霜柱対策にした敷松葉の真似事である。庭の松は、赤松だから敷松葉にいいのだが、残念ながら若くて油分が少ない。朽ちたような松葉ではなく、青々とした松葉が今落ちたという風情で敷けとあるので、そんな感じで撒くのだが、松はまだ若いので、十分な量がない。よそに行って松葉を分けてもらうというのも、ちょっと変だと思うので、一部の敷松葉で我慢している。

以前から書き続けていた古田廣計の続きになる。寛政10年(1798)とあるから、廣計の名は、まだ「壱岐」、42歳である。この年、岡藩は不安定というか、落ち着かなかった。八代久貞公の娘宣姫に続いて、正室も7月に亡くなっている。壱岐は、その度に織部作の茶杓や香合など御遺物を拝領する。また9月18日には、九代藩主久持公も亡くなられた。久貞公没後8年、わずか23歳であった。10月6日には大和郡山藩主松平家から急養子を申請、26日に岡藩壱岐の元へ「御用有之」と仰せ付けられ、11月2日出立、12月9日江戸着。ご養子が家督を継ぎ、十代藩主久貴公となったのが11月29日、まだ12歳だった。12月23日用事が片付いたので岡藩へ帰る許しをいただくのだが、「寒気之時分折返致旅行候ニ付」と羽織を藩主お手自ら成し下された。つまり、寒い時分に折返しの旅になる、大変だろうと羽織を藩主が直接、壱岐へ手渡された、と。文書で済む程度の要件しか、記録に残されていない。実際は何か重要なことがあったのに、表に出せなかったのではないか。それでなければ、こんな日程で岡藩と江戸を歩きで往復させるとは思えない。27日江戸を出立、2月9日に岡藩着。6月には久持公御遺物、脇指と狩野洞春筆「櫻に鷹」を拝領。

享和元年(1801)5月12日豊州出立、6月18日江戸着。7月に「御年寄役」を仰せ付かり、「勘解由」と名を変えている。10月の話が面白い。この年45歳になっている古田勘解由は、御用人を通してお伺いを立てた。春夏の御用を見合わせながら、別府で二十日ほど湯治に行きたいこと、休息所の為玉来阿蔵村に土地をいただき簡単な草庵を造り詩歌の会など催したい、時には泊まることも、と。藩主の許しは出た。

10月16日江戸を出立、大阪より中国路を通り11月25日豊州着。常ならば、大阪よりは船のはずだが、旅行気分であったのかもしれない。ただ、中国路を通る件は、江戸出立前に御用人へ申し上げた、と書かれているので、単なる気分のままに変えてみたなんて訳ではなかったのだろうが。
享和3年、この年参勤交代の御供で江戸へ出て、10月に「中務」と改名している。

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