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良心の呵責を感じないものには勝てない

他人を苦しめ傷つけたとしても何ら良心の呵責を感じないサイコパス。サイコパスとは関わらない。これがサイコパスに対する鉄則である。しかし、最近、私を嘘で貶めたサイコパスと思われるA氏から電話があり、それまでの経緯から私が電話をとらざるを得ない状況が起きた。

どうしたものかと思いながら電話をとった。そこで思わず私は言ってしまった。「君の嘘で貶められたおかげで、今はかえって良かったと思っているよ」。ついつい良心をもつ人間にする対応をしてしまった。これは良心に呵責を感じないものには通じないどころか、状況を悪化させかねない行動だったのに…だ。

私は久しぶりにAと話すことで、彼が私に対する後ろめたい反応を示すかも、と期待してしまった。サイコパスが、後ろめたさなど決して持つことはない感情だと頭では理解していたのに。

Aがほんの少しでも動揺したら、少しは私の苦しみも癒えるだろうと期待してしまった。私の暗澹たる思いが少しは晴れるだろうと思ってしまった。酷いことをされたとしても、その人がほんの少しでも申し訳ない、という様子、あるいは多少の動揺を見せれば、たとえ言葉で謝罪をしなかったとしても、「悪いことをしたことは分かっているんだな」と、少しは恨みが和らいだりする。

しかし、それはサイコパスに対して、決してしてはいけない期待だった。

Aは、しらばくれるだけではなかった。私を再び貶める絶好の材料を得たという感じで攻撃をしてきた。

私たちは良心があることを前提に人間関係を築いている

今まで様々なタイプの人といろんな関係があった。思いを共有し喜びあったことがあれば、誤解から対立したりすることもある。意見や性格が合わなくてぶつかったり、思わず失言して不快な思いをさせたりとか。そんな中で関係を修繕する上で知らず知らずにとっている行動パターンがある。それは相手も私も良心があり、「まずいことをしたな」と思えば良心の呵責を感じる、という前提に基づく行動だ。謝罪までしなくても申し訳ない素振りが示されることで、ある程度許す気持ちになれる。それが一つのきっかけで、お互いに理解して相手をこれ以上批判するのは止めようとなったりする。

しかし良心の呵責を感じないサイコパスに「申し訳ない」などという感情は生じない。自分の利益になると思えばそういう素振りを示すことはあるようだが、これも相手を騙すためでしかない。

サイコパスに対する鉄則はとにかく「関わらないこと」これに尽きる。相手にたとえ謝罪の言葉は求めないとしても、反省の態度を期待する、これも全く無駄なことというか、むしろ危険なことだ。

私たちには良心がある、そして謝罪はしなくても「良心の呵責は感じる」。知らず知らず、それを前提にして行動してしまう。この前提が全く通じないもの。それがサイコパスだ。良心をもつ人間は良心の呵責を感じないものに勝つことはできない。

人を貶めたり傷つけたりすることが快楽のサイコパス。そんなものとは関わらない。これに尽きるということをあらためて実感した出来事だった。


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