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「意識高い系」の押し付けと後ろめたさを超えて

「意識高い系」という言葉は最近は聞かなくなったけれど、10年くらい前はとても流行っていた気がする。
社会的な事柄に関心があったり、自分の将来のために楽しむ時間を犠牲にしてでも勉強や何かを頑張っている人に対して言っていたし(言われていた)気がする。今思うと、その言葉の裏には(あの人はあんなに頑張ってるのに自分は…..)という妬みや焦りもあったと思う。

世界的に若者を中心とした気候変動アクションが大きな動きとなっている。
一方でそのムーブメントの発端の地、スウェーデンでは、飛行機を使ってどこかに行くといった子どもが「CO2排出量がものすごくて環境に悪い飛行機を使うなんて!」と非難されたり、デモに参加しなかった子がいじめられたりするという問題も起きているらしい。

私自身、なるべく水筒を持ち歩く、不要なプラスチックを使わないなど日本にいるときも小さいアクションを心がけていたけれど、デンマークに来て、環境問題に対して本当に危機感を抱いている友人に出会い、自分の生活をより見直すようになった。
彼女は完全ベジタリアンで、常にマイ皿マイフォークナイフセットを持ち歩き、電気も水もかなり節約し、チェコにある家に帰るときも飛行機を絶対使わない。空路より陸路のほうが5倍値段もかかるし、時間にしてみれば10倍以上かかるのに。
私はそんな彼女の姿勢に触発されて、精肉過程で発生する環境へのダメージをテーマにしたドキュメンタリーを見たりして、なんちゃってフィスカタリアン(魚は食べるベジタリアン)になった。といっても完全に徹底しているわけではなく、今でも肉の味は好きだし、どうしても食べたい時は食べるし、むしろ魚は結構食べるし、特に家に招かれたりした場合は喜んで食べるけど。
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先日、おそらく私の友だちと同じような意識の持ち主と旅行した人が「食事の時もいつでも、友人がことあるごとに環境への配慮って言ってて居心地が悪かった」と言っているのを聞いた。その子に同じ選択をするように押し付けるわけではないけれど、その子とずっと一緒にいるだけで自分が悪いことをしているような気がして、と。
私は居心地の悪さを感じて、自分がフィスカタリアンなこと、プラスチックフリーの生活を心がけていることなどをその場で言い出せなかった。
一方で彼女の気持ちもよくわかる。私もそのチェコ人の友人と二人で出かけて、マイカップを忘れてプラスチックのボトルでコーヒーを貰ったとき、自分が悪いことをしているような、後ろめたさを感じたから。でももちろん、彼女は何も言わなかった。でもその時の後ろめたさは確実に、常にマイカップを持ち歩く私の原動力の一部にもなっていると思う。
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何かアクションをしようとする時。
自分が目指す世界を他人に“押し付ける”ことは、逆に嫌悪を生んでしまう。
と同時に、他人に“押し付ける”権利は誰にでもない。
そして“押し付けられた”アクションは、長続きしない。

でも“押し付ける”ことをしなくても、そのようなアクションをしている人とともに生活をするだけで、他人が責められているような“後ろめたさ”を感じることは容易にある。
そして逆も然り。アクションをしている人を責めるような口調を聞いてしまうと、その人たちに働きかけるのを躊躇してしまったりする。
そうやって“意識高い系”と“そうでない系”は分断してしまうのだ。
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ヨーロッパにおける環境問題ムーブメントのすごいところは、それがファッションになっていることだ。結局は“意識高い系”から“かっこいい”“素敵”と思わせることが、その分断を超える一つのきっかけなのだと、こちらにきて改めて考えさせられた。
と同時に、私が友人に触発されたように、“意識高い系”の生活をする人の発信が届く場合もある。時に煙たがられるのも承知で、きちんと自分の立場を表明することが、誰かの心を打つ時もある。
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アクションを“広げる”ことと“深める”こと。
それは時に相反することもあるし、どちらもすることは忍耐も勇気もいるし、時には葛藤と向き合わなきゃ行けないし、どちらかを支持している人たちから批判が来ることもある
”広げる”ことに注力している人たちに対しては、不真面目だ、軽い、というような。”深める”ことに注力している人たちに対しては、真面目すぎる、面白くない、というような。
どちらも大切なんだと頭では分かっていながら、私自身特に”広げる”ことに注力している人たちを色眼鏡で見てしまうことも多くあったけれど、ヨーロッパでの環境問題に対するアクションのファッション化を目の当たりにして、頑固だった自分の頭が柔らかくなりつつあるのを感じている。

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