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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  オブさん文芸部エッセイ⑩ 悪戦苦闘のブンヤ稼業で文章修業(上)】

N大学文理学部をなんとか卒業し、就職にこぎ着け、その後新潟に戻るまでの顛末です。

 以前にも書いたように、高校生の時には文芸部に所属し、小説めいたものをちょっと書いていたわたしは、文章を書くことに根拠のない自信を持つようになり、大学生のときには、卒業したらぜひそっち方面の会社に就職したいと考えるようになっていました。また、当時は、今はなき「朝日ジャーナル」や「噂の真相」など、硬軟さまざまな雑誌をむさぼるように読んでいて、ジャーナリストという仕事に憧れるようにもなっていました。具体的には、出版社か新聞社などの会社に入社して。文章書きの仕事をしたい、と思ったわけです(プロの作家になろう、というのではないところが、今から考えればアレですね)。

 大学四年のときには、東京の大手出版社や新聞社の就職情報を片っ端からかき集め、受験する前から入社した気になりながら、さてどこを受けようか、などと構えていました。いちばん行きたかった出版社は、残念ながらその年入社試験を実施しない、ということが分かり、がっかりしながらも気を取り直して次のターゲットを捜し、そうして願書を提出したのが、N日報、M新聞、J通信の三社でした。もちろん試験勉強も怠りません。「新聞ダイジェスト」とか「ニュースファイル」といったニュース雑誌を買い込み、毎日枕元に置いて読みながら寝ていました(笑)。

 しかし、結果は惨憺たるものでした。J通信は英語の問題が全く解けず、あえなく一次試験で敗退。N日報とM新聞は最終面接まではたどり着いたのですが、M新聞では、当時刑事被告人で新潟県出身のT元首相を「T先生」と連呼して試験官の失笑を買い、N日報ではいきなり「新聞記者は向いてないんじゃない?」などと突っ込まれて頭の中が大混乱に陥り、結局、すべて不合格というていたらく。ろくに勉強もせずシャレで受けた教員採用試験ももちろん受かるはずもなく、就職が決まらないまま卒業しなければならない事態となったのでした。大学で好きなことしかやってこなかったツケを、ここで一気に払わされた、という感じです。

 さて、どうしよう。ここでわたしが選んだのは、「留年してもう一度挑戦しよう」という選択でした。学費・生活費すべてを奨学金とアルバイトで賄っていたわたしにとっては、相当厳しい賭けのようなものです。なにしろ、留年すれば奨学金はもちろんもらえなくなりますから、その分金銭的には大変つらいことになります。それでも、一度立てた目標を安易に引っ込めるわけにはいきません。少なくとも二社は最終面接までこぎ着けた、というのがなけなしの自信にもなっていましたし、だいたい、他の職業に就くなどということは全く考えもしなかったわたしにとっては、それ以外の道は全く見えなかったのでした。(つづく)

【新潟東高校文芸部誌「簓」第三集(2006年9月発行)顧問エッセイより】

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