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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  オブさん文芸部エッセイ⑦ 音楽とバイトでビンボーも楽し(上)】

M高校を卒業し、2年務めた仕事を辞め、いよいよN大学入学後のお話です。

 さて、高校卒業後、せっかく採用された安定した職場をあっさり二年で辞め、親からは勘当されながらも、東京の大学(東京大学ではないよ)に勇躍赴いたわたしは、高校の先輩から紹介された四畳半一間、風呂なし、トイレ共同、家賃二万二千円なりのアパートに潜り込み、いよいよ花の東京生活をスタートさせたのでした。

 桜の花は全て散り果て葉桜となり、季節は早くも初夏の装いです。新入生ガイダンスも無事終わり、新学年の講義も始まり、N大文理学部のキャンパスは、学部中のサークルが中庭いっぱいにブースを出し、部員を募集していました。わたしも、自分に合ったサークルはないかと、さまざまなサークルの募集活動を眺めていました。途中、屈強な男子学生集団に囲まれ、「体育会空手部で、心と身体を鍛えないか」と誘われたときには、さすがに「鍛えすぎて死んだら困る」と思い、とっとと逃げ出しましたが、まあ、いろんなサークルから声を掛けられながら、「大学というところは、面白いところなんだなあ」と、その時点ではまだまともに講義を受けてもいないくせに、思ったりもしました。

 実はわたしは、そのとき、どうしても入りたいサークルがありました。わたしは高校時代から、ミュージシャンになるのが夢だったので、ぜひ音楽サークルに入部したいと考えていたのです。
 ところが、さすがは日本一巨大なN大だけあって、音楽サークルなど、まるで雨後のタケノコのようにあるのです。その中には、後に角松敏生などを輩出した名サークル「FSA」などのメジャーなものもありましたが、わたしが心引かれたのは、GパンにGジャン、アコースティックギターを抱えて歌っているのは六〇~七〇年代のメッセージ・フォーク(と書いても、今の高校生には分かんないだろうなあ)という集団でした。そのサークル「現代社会派フォークソング研究会(略して社フォ研)」に、わたしは即入部することに決め、気づいたときにはその場でそのメンバーと一緒になって歌っていたのでした。

 はっきり言って、もっと都会風な、早い話がオシャレな音楽サークルは他にもいろいろありました。それなのにわたしはわざわざ、最も古くさくてアヤシゲなサークルを選んでしまったわけです。まあ、正直、新潟の田舎から出てきたわたしは、ファッションなるものに全く縁のない家庭環境で育ったことも相まって、都会の流行や服飾などはまったくわからず、本当にダサダサの若者だったわけで、服装といい髪型といいあまりにも「かっこいい」人たちがやっているサークルには、正直気後れがして、入りたいとは思いませんでした。その点「社フォ研」は、そういった「かっこよさ」はまるでなく、わたしのようなものでもなじみやすかった、というわけなのでした。メインの楽器がアコースティックギターだけ、というのも、当時へたくそなギター引きだったわたしには魅力でした。さらに魅力的だったのは、このサークルからは、このころ私が憧れていた「学生運動」の匂いがプンプンしていた、ということでした。(つづく)

【豊栄高校文芸同好会会誌「凪」第五集(2004年11月3日発行)より】

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