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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  オブさん文芸部エッセイ⑩ 悪戦苦闘のブンヤ稼業で文章修業(下)】

 そしてたちまち一年は過ぎ、いよいよ二度目の挑戦です。受けたのは前年に続いてのN日報とM新聞、そしてA新聞。第一志望は全国紙のM新聞です。しかし、N日報は前年の面接の失敗がたたったのか門前払いをくらい(一次試験も受けさせてもらえませんでした)、M新聞はまたも最終面接までは行ったものの、結果は補欠。で、いちばん難しいと言われたA新聞にだけ、どういうわけか合格し(一次試験は、一般教養はまあそこそこできたものの、英語は当然一問も解けず、小論文は千六百字のところ千字程度しか書けずで落ちているのですが、その後、地方勤務記者面接の案内が届いたので面接試験を受けたら、なぜか合格しちゃったのです)、一九八六年十一月一日、わたしはA新聞仙台支局に赴任していったのでした。(大学は九月に卒業させてもらいました。わはは)

 仙台での記者生活は、しかし、そんなに甘いものではありませんでした。文章を書く以前に、取材が大変なのです。駆け出し記者はみんな、いわゆる「サツ(警察)回り」から始めるわけですが、わたしはこれが大の苦手でした。警察署内を回る程度ならまだいいのですが、何より嫌いだったのが「夜討ち・朝駆け」というやつです。早い話が、おまわりさんの家に上がり込み、事件についての情報をもらうのですが、周りがすっかり寝静まった深夜におまわりさんの家に行って話を聞く、というのは、その家の家族に迷惑だろうなあとか刑事さんに嫌われるんじゃないかなあとかいろいろなことを考えてしまい、どうもうまくいきません。だから、親切な刑事さんから家に上げてもらい、情報をもらってついでに酒まで飲ませていただいたりしたときには、涙が出るほどうれしかったことを今でも覚えています。

 そんなふうにしてネタを取り、ともかく記事にしてデスクのところへ持っていくのですが、Kデスクはいつも、わたしの書いた原稿をざっと見るなり、「オボナイ(Kデスクは秋田にいたことがあり、いつも「オブナイ」を「オボナイ」というのでした)、オマエの文章には、心がないんだよ、心が」とわたしを叱り、書き直しを命ずるのです。原稿を破られたり、投げ捨てられたりしたこともしばしばでした。もちろん、ボツになった原稿は数知れません。

 今から思えば、いわゆる5W1Hという新聞記事の基本がなっていなかったということもあるのでしょうが、それ以上に文章を書く心構え自体がなっていなかったのだと思います。きちんと取材して、それを自分の心でしっかりと受け止めて、人を納得させられる記事を書くことが、わたしには全くできていなかったことを、Kデスクは指摘していたのです。もちろん、わたしの文章書きの自信というかうぬぼれは、この時点ですっかり消えうせていました。毎日毎日叱られながら、一生懸命取材をし、原稿を書いては直される日々を過ごしながら、しかし、だんだんと、文章を書くことの本当の面白さ、難しさを、徐々にではありますが理解していきました。

 個人的な事情で、A新聞には一年半だけお世話になり、新潟に戻って教員になったわたしですが、文章を書くための基本的な考え方は、仙台にいたころに身につけたように思います。今も、なかなか思うような文章は書けないままなのですが、こんなことを書いているときなど、今よりずっと若かったあのころのことを、ほろ苦さとともに懐かしく思い出したりもするのです。

【新潟東高校文芸部誌「簓」第三集(2006年9月発行)顧問エッセイより】

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