見出し画像

【投稿その1 昔のエッセイを放出します  オブさん文芸部エッセイ⑫ サジちゃんの思い出(下)】

 サジちゃんが体調を崩したのは、ちょうどそんな時でした。肝臓の調子が悪いという話で、しばらく入院が必要とのことでした。アフレコに入る直前のことで、わたしは、早くサジちゃんとアフレコ作業を始めたい、と思っていました。入院中のサジちゃんを見舞い、「早く帰ってきてくださいよ」などとお願いもしました。

 そんな初夏のある日、サークルのリーダーが部員を集めました。そして、こう告げたのです。「桟敷原(サジちゃんの姓)は、ガンで、あと半年の命だそうだ」。
 うそだろう? その場は静まり返りました。わたしも、信じられない思いでした。まだ映画は完成していないのに、死なれては困る。そんな、あまりにも勝手なことを思ったりもしました。わたしは、リーダーの言葉を、しっかり受け止めることがどうしてもできませんでした。サジちゃんがガン。あと半年の命。そんな言葉が、わたしの目の前の宙を舞っていました。

 それからしばらく、サジちゃんは元気にふるまっていました。病院を抜け出し、大学にまで顔を出したこともありました。わたしはそんなサジちゃんを見て、「なんだ、元気じゃん。大丈夫、サジちゃんは死なない」と思いました。まだ撮りたい映画もある。それはサジちゃんとしか作れない。サジちゃんとなら、なんでもできる。だから、サジちゃんは死なない。死なせてたまるか。そんなことを、そのときのわたしは思っていたのだと思います。

 けれど、それから半年後、サジちゃんは亡くなりました。わたしのアパートの部屋で、なぜか予告もなくやってきたサークルの仲間と酒を飲んでいるときに、電話が鳴りました。受話器の向こうでサークルの先輩は、サジちゃんの死を告げました。サークルの仲間とわたしは、その後黙って酒を呑み続けるだけでした。
 通夜に出席し、棺に眠っているサジちゃんの顔を見た瞬間、私は泣きました。電話でサジちゃんの死を知らせてもらったときには流れなかった涙が、止めどもなく流れました。身近な、大切な人の死を経験したのは、それが初めてでした。

 亡くなったときのサジちゃんの年齢は二十八歳。私の年齢はいつのまにかそれをはるかに超えてしまいました。当時のサジちゃんの友人である先輩たちは、サジちゃんの命日に合わせて毎年秋、東京のサジちゃんの墓前で、酒盛りをするのが通例となり、私もこの十数年来参加しています。墓石にはサジちゃんの好きだった白ワインを備え、わたしたちはめいめい持ち寄った酒を吞み、ひとしきりサジちゃんを肴に語り合います。先輩たちの外見は(もちろんわたしも)、いつの間にかみんな、何だか落ち着いた、あるいは枯れたおじ(い)さんになりました(若いままなのは、実はサジちゃんだけです)。でも、中身は当時の熱いものを消さずに持ち続けています。サジちゃんという存在があったからこそ、こうやって今もつながり続けることができる。だから、実はサジちゃんは、こんな形でわたしたちの中に生き続けている、そんなふうにも思っています。

 とうとうアフレコをされることのないままとなってしまったそのフィルムは、今も私の手元にあります。数年前、思い立ってそのフィルムからDVDを制作しました。それを、今も大変お世話になっているかつてのサークルのリーダーにお渡しし、この映画に関わった皆さんにコピーを配っていただきました。音のないその映画には、あの頃のサジちゃんや大学の先輩たち、そしてわたしの映像が、八ミリの粗い画面の中に息づいています。折に触れてその画像を見るたび、根拠のない希望を抱いて生きていた、若すぎるバカだったわたしの、ある意味夢のような大学生のころを、懐かしさと少しのほろ苦さ、切なさとともに思い出すのです。

【豊栄高校文芸同好会誌 「凪」第3集(2003年9月16日発行)顧問エッセイを加筆しました】

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?