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【投稿その1 昔のエッセイを放出します  オブさん文芸部エッセイ⑥ わたしが大学に入るまで(下)】

 勤め人の生活は、わたしにとってはすべてが新しく、すべてが初めての経験でした。といえば聞こえはいいのですが、早い話が、これまでの経験はまったく役に立たない、わけのわからないことの連続でした。どうしていいかわからないために机の前でボーッとしていると「自分で仕事を見つけなきゃダメじゃないか」と叱られ、それではと自分なりに仕事らしきものを見つけてやってみると「そんなことやってるヒマがあったらこっちの仕事をやらなきゃダメだろう」と言われ、結局どうにもならないまま時間の経つのを待つ、という毎日でした。
 なぜ自分はこんなに仕事ができないのだろう、と考える日々が続き、やがてふと気づきました。わたしは、勉強の仕方をまったくわかっていなかった、ということに。
 勉強というのは、必ずしも学校だけでするものではありません。社会で生きていくためには、あらゆる局面で勉強が必要になります。その仕事にはその仕事なりの、他の仕事には他の仕事なりの勉強が要るのです。もちろん、勉強にはそのやり方というものがあるわけですが、わたしにはそれがまったく身についていなかったのです。「こりゃイカン」。その時初めて、わたしは学校で勉強することの意味に気づいたのでした。
◇         ◇
 そのときから、わたしは改めて受験勉強を始めました。勤め先には申し訳ないのですが、いわゆる「仮面浪人」となりました(受験勉強は、このときの私の考える「勉強」とはかなり異質でしたが、それをやらないことには始まりません)。自分の能力を考えて、五教科七科目が必要な国公立はハナから諦め、私立大学を受験しようと決めました(私大の学費は国公立に比べてかなり高いのですが、それでも文系の学部は、入学当初に必要なもろもろの資金さえ用意できれば、まあ自力でもギリギリなんとかなるところが多かったのです)。さらに、苦手の英語も捨てて、国語と政治経済の二科目に絞って勉強しました。当時の私立大学の受験科目は三科目のところがほとんどで、合格点は三〇〇点満点で一七〇~二〇〇点くらいのところが多かったので、「英語が〇点でも国語と政経で満点近く取れば合格だ」と判断したわけです。今から思えば相当無茶ですが、そのときのわたしの実力からすれば、そのやり方に賭けるしかなかったのもまた確かでした。
 そして二年後、わたしはようやく大学に合格し、仕事を辞めました。安定が売りの職場でしたから、当然、親からはさんざん叱られ「学費は一銭も出さん」(「出さん」のではなく「出せん」というのが本当のところだったと思いますが)と宣告されました。勤めている間に貯めた一〇〇万円を元手に、わたしは一人東京へと向かいました。それでも、わたしは希望で胸がいっぱいでした。もう一度勉強できるチャンスを、唯一合格通知をくれたN大文理学部国文学科が与えてくれたからです。そして、この大学生活は、わたしのささやかな人生の、大きな転機となったのでした。

【豊栄高等学校文芸同好会会誌「凪」第4集(2004年3月5日発行)より】

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