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勉強をする意味

結論からいうと…

今回は「勉強をする意味とは?」という誰もが考えたことがある考えについて、僕自身の考えを述べていきたいと思います。
皆さんも、自分自身で少し「勉強をする意味」を考えた上でこの記事を読んでいただけると、面白いのではないかなと思います。



まず、初めに「勉強をする意味とは?」という質問に対しての僕の回答は、


勉強をする意味はあるとも言えるし、ないとも言える


です。このどっちつかずとも取れる回答に至るまでの思考のプロセスを述べていこうと思います。


「意味」とは

僕はこのような問題を考える際に、まず文章を細分化して、1つ1つの言葉を自分自身の中で定義する作業を行います。今回でいうと、
「勉強」と「意味」について僕は定義を行いました。

まずはじめに、「意味とは何か」ということに対しての僕の考えを述べていこうと思います。

そもそも「意味」には複数の意味(ややこしいですね笑)があります。

広辞苑では「意味」の意味として、

①記号・表現によって表され理解される内容またはメッセージ。
②物事が他との連関において持つ価値や重要さ。

という2種類が記載されていました。ここでは後者の「意味」について考えていきたいと思います。そのため、ここからの「意味」は、全て後者の意味であると考えるようにしてください。

僕自身の考えでは、物事の意味はそもそも「ある」というものではないと思います。

例えば、「50m先に自動販売機がある。」という場合、「喉が渇いていたんだ。」という人にとっては、その自動販売機はとてもありがたい存在になるかもしれません。「喉が渇いていたけど、お金を持っていないんだよな。」という人にとっては、その自動販売機に対して寂しさや悲しさを感じるかもしれません。「そもそも、喉が渇いていない」人にとっては、自動販売機が“ある”といった程度にしか思わないでしょうし、もしかしたら自動販売機の存在すら目に入らないかもしれません。

このように、物事の意味は「ある」というよりも、それぞれが見出し、価値づけるものであると僕は考えています。その人が意味があると思ったらあるし、ないと思ったらないのです。また、それに正解はないし、不正解もないのです。このようなことは当たり前のことであると考えるかもしれませんが、明確に定義して考えることはあまりないのではないでしょうか。


「勉強」とは

続いては、「勉強とは?」について考えていきたいと思います。

「勉強」というと、多くの人は最初に、「学校で学ぶ教科としての勉強」を想像するのではないでしょうか。国語、数学、社会、理科、英語etc…。これらは確かに勉強と言えると思います。

では逆に、それ以外の事は勉強ではないのでしょうか?

「恋愛をすること」は勉強ではないのでしょうか。「携帯をいじること」は勉強ではないのでしょうか。「ご飯を作ること」は勉強ではないのでしょうか。

そう問われた時、僕はそれらも勉強であると言えると思います。僕自身は「勉強」を

何かを学習する行為、もしくは学習した結果

であると考えています。
※この場合の「学習」の意味は、「学び習得すること」と定義します。

そのため、この世のありとあらゆることは勉強の対象とすることができると僕は考えます。

「学校で学ぶ教科としての勉強」は日本の入試を突破するためのツールとしては一定レベルで機能すると思いますが、「必ず教えなければいけないもの。教えないとこの子の未来が…!」という強迫観念に襲われるようなものであるのでしょうか。そもそも、入試を突破して学校に入学することは幸せな人生に必要なのでしょうか。
(学校で教えられる教科としての勉強に関しては、また後日別のnoteで詳しく考えを述べようと思います。)

学校で教えることだけが勉強であるというならば、それはいささか視野が狭すぎるかもしれません。「勉強」に関して、改めて捉え直してみるのもいいかもしれません。

※1 学校で行う勉強が意味のないものであるとは言っていません。むしろ意味はあると思っています。
※2 公立の教員という立場では、「勉強を教える義務」があるので勉強を教える必要があると思います。その手段はいろいろあると思いますが。

※参考までに広辞苑に載っている「勉強」の意味を載せておきます。
❶ 学問や知識・技術などを身につけるために学ぶこと。
❷経験をすること。また、(将来のためになる)その経験。
❸ 商人が値引きをすること。値段をまけること。


「勉強をする意味」とは…

先ほど述べた2つを踏まえると、僕が冒頭で述べた

勉強をする意味はあるとも言えるし、ないとも言える

という言葉の意図を少しは理解していただけるのではないでしょうか。

しかし、実際に誰かに「勉強をする意味とは?」と問われた時、この回答だけでは相手も納得できないと思いますし、僕自身もこれで終わりだとは思っていません。

ここまでは、「勉強をする意味」についての前提部分を皆さんに共有しました。ここからは、僕自身の人生経験を踏まえた上での勉強をする意味について述べていきます。

僕自身、勉強をする意味は“ある”派です。

以下の文は僕の考えですので、皆さんには是非とも自分自身の勉強をする意味を考えていただきたいです。その際に、僕の文章が多少なりとも参考になれば、とても嬉しいです。


勉強をすること

「勉強」の定義は先ほど述べましたが、果たして「勉強をすること」とはどのようなことでしょうか。僕自身は「勉強をすること」は、

認知の枠組みを広げていくこと・概念を増やすこと

であると考えます。勉強をすることにより、様々な知識や経験を得ることができます。それにより、様々な物事の見方が変わる経験や、知識を得る経験をしたことは誰にでもあると思います。

例えば、散歩道にいるよく吠える犬も、何も知らなければ「よく吠える犬」ですが、その犬の名前が「ジョン」であると知ることができれば、その犬は「よく吠える犬、ジョン」という見方になります。このような経験も、認知の枠組みが広がったことにより、物事の見方が変わった経験です。

「学校で学ぶ教科としての勉強」は、それらを体系的に整理し、重要な部分を切り取ったものであると僕は考えています。
大きく見れば、先人が積み重ねてきたものを後世に継承し発展させてもらうという点で、人間社会にとって学校で教科を子どもたちに学んでもらうことは意味があると思います。

小さく見ても、例えば、「雲ができる理由を知ること」は、雲に対しての認知の枠組みを広げるという点で、非常に重要な意味を持っていると言えます。

勉強をすることの価値

では、どうして認知の枠組みを広げたり、概念を増やすこと(=勉強をすること)を僕自身は重要であると捉えているでしょうか。

勉強をすることで認知の枠組みを広げることや概念を増やすことは、自身のやりたいことや、やりたくないこと、好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なことなどを知ることができるかもしれないし、何もわからないかもしれません。

それらを知ることは人生を豊かにすることに繋がってくると僕は思います。それらを知ることができれば自分自身がどのようなことに幸福を感じて、どのようなことが楽しくて、どのようにすれば自分のなりたい自分に近づくことができる(自己実現)か知ることができるからです。また、自分自身の人生の選択肢を増やすことにも繋がってくると思います。

また、勉強をすることで何もわからなかった場合でも、「わからない」ということがわかるということは大きく意味があることだと僕は思いますし、同様に人生を豊かにすることに繋がってくると思います。(これは、ソクラテスの言う「無知の自覚」や「無知の知」に近い考え方だと思います。)

大きく言えば、人によっては、勉強をすることで「生きる意味」が見つかってくるかもしれません。(もちろん、見つかってこないかもしれません。)


ここで重要となってくることが、2つあります。

① 勉強をした意味はすぐにはわからないことが多い。
(というかほとんどわからない。)
② 勉強をした意味があったかどうかは勉強をしないとわからない。 

①に関しては、「意味」の特性上言えると思います。人によって、物事への意味づけの仕方は様々ですし、その意味がどのように価値を持ってくるかは誰にもわかりません。

今、人気の歌手の人たちは、「歌手になりたいから歌を歌うことを好きになった」のではなく、「歌うことが好き(もしくは得意)だから歌手になった」のではないでしょうか。これは、自分の好きや得意が結果的に価値(人気になり仕事を得たという価値)を持ったパターンです。

また、SNSで「失恋」に関しての記事で人気を得ている人たちは、きっと「SNSで人気を得るために失恋をした」訳ではなく、「失恋をしたことを、他の人からの興味を得る形で文章にし、SNSに公開して人気になった」のだと思います。これは、一見「失恋」というマイナスとも捉えられる経験をプラスの意味に価値づけすることができたパターンです。

このようなことは一例ですが、勉強をした意味というのはすぐにはわからないことがほとんどだと思います。

②に関しては、①とも関連してくるのですが、勉強したからといって、すべてのことが意味を持たせることができるとは限りません。しかし、変化が多いと言われているこれからの時代、何が意味を持つのかはわかりませんし、そもそも意味を「持つ」というよりは、自分自身が意味を「持たせることができるかどうか・価値づけることができるかどうか」ということが重要であると思います。


つまり、これらのことを整理した上で、「勉強をする意味とは?」に対しての僕の考えは、

勉強をする意味は“ある”ものではなく、自身で“価値づける”ものである。

それを踏まえた上で、勉強をすることは意味があると、僕は思う。

勉強をすることで、自分自身の知見を広げることや概念を広げることができ、それらはなりたい自分になることや、人生の選択肢を増やすことにつながってきて、結果的にそれぞれのよりよい人生に繋がってくると思う。

と答えたいと思います。

最後に

以上、長々と書きましたが、僕が考える「勉強をする意味」でした。

1つだけ留意点として述べておきたいのですが、僕の考える「勉強をする意味」をそのまま自身の「勉強をする意味」とすることはやめておいた方がいいと思います。理由としては、これは「僕自身」の考えたものであるので、これを軸にすると「僕自身の考えを軸にして」勉強をすることになってしまうと思います。自身の人生の軸は、自分自身で考えないと、他人の考えに依存してしまう人生になってしまうように僕は思います。(うまく言えずにすみません。)
※考えた結果、僕自身のと同じ部分が出てくる、同じになるというのは全然いいと思います!

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。皆さんの参考や暇つぶしにでもなれたら幸いです。

次回はもう少し短めに、抽象的な部分もわかりやすくまとめることができるように頑張りたいと思いますので、これに懲りずにぜひ、また読んでいただけると幸いです。

追記

20100426
ここで書かれている僕の「勉強」の定義は、心理学における「同化」と「調節」の考えを基にしていることに気づきました。まだ知らない人はネットや本などで調べてみてください!