北方謙三「水滸伝」

人生のバイブルにするにはあまりに…

中学3年、受験シーズン真っ盛りの時のこと。
多少なりとも、悪い頭を絞ってひねって勉強をしていた。

そんな中、父親が僕の部屋に入ってくるなり

「これを読んで歴史を勉強しろ」

と言って、3冊の本を手渡してきた。
中身は、横山光輝著「三国志」だった。
新装版の1、2、3巻であった。

三国志…聞いたことはあったが、内容は全く知らなかったので、言われた通り読んでみたところ、まあハマってしまった。もはや受験勉強どころではない。

新装版三国志、全30巻である。(単行本版は全60巻)

お小遣いを貯めた貯金を切り崩し、僕は三国志をなんとか買い漁った。
勉強もせずに読破して思った事は、

「いったいお父さんは何を考えていたのだろう」

という事だった。

「歴史を勉強しろ」

そう言っていたが、勉強できたのは中国史のほんの一部分、しかも受験にはほぼ関係の無い時代の話である。
「赤壁の戦い」とか、受験どころか歴史の授業でもほとんどやらない。

「お父さん、三国志、全部読んだよ」

「面白いよな三国志」

本当に何がしたかったのだろう。
僕は、数学が壊滅的にできなかったので、勉強を勧めるのであれば、数学の参考書などを渡した方が本来は良かったはずだ。

でも父親は三国志を渡してきた。しかも漫画だ。

これはつまり、

「勉強ばかりしていないでたまには息抜きしろ」

という事だったのだろうか。
息抜きどころか、三国志をひたすら読み続け、その息抜きに勉強をするという、完全な逆転現象が起きてしまった。

朝早く起きて三国志を読み、休憩中にちょろっと申し訳程度に数学の教科書を読む、そろそろ再開するか、と三国志を夜中まで読む、というサイクルになっていた。全30巻を5、6周はした。

志望校にはなんとか受かったけれど、これで落ちていたら、三国志と父親を恨んでいたかもしれない。

高校生になって

受験勉強という縛りから解き放たれた僕は、それから中国史にハマっていった。
漫画はすぐに読み終わってしまうので、やがて小説に手を出した。
朝の読書の時間、というのが、僕らの高校にはあったのだけれど、せいぜい10分程度で、僕には全然足りなかった。
個人的に延長をしていて先生に怒られ、没収された事もあった。

そこで出会ったのが北方謙三先生という、ハードボイルド小説の旗手だった。

北方謙三氏が描く歴史小説は─本当に熱い。どう生きてどう死ぬか、というテーマを、これでもかと突きつけてくるのである。

中でも水滸伝は、高校生〜社会人一年生くらいの僕にとって、ものすごく刺さる内容だった。

小説で全19巻。なかなかのボリュームである。
ちなみに水滸伝はその後「楊令伝」「岳飛伝」と続く。

もともと北方謙三先生はハードボイルド小説を描かれていて、中身はやはり暴力的で官能的で、情熱的で刺激が強い。
それが歴史に名を残した武将たちと絡まり合って、なんとも生々しい生き様というのが見えてくるのだ。小説を読んで涙したのは、北方謙三先生の物語が初めてだった。

原典の水滸伝…中国で書かれたものは、108人の豪傑・英傑が揃い、中には魔法使いみたいな人物も現れたりして、ちょっとファンタジックに書かれているのに対し、北方水滸伝は、そもそも108人の英傑達が揃う前に、ガンガン命を落としていく。

「こ、ここで死んじゃうのかよ…」

主要キャラ達が容赦なく死んでいく。

さらに、ファンタジックな魔法使いなんて一切出てこず、あくまで現実的に人間くさく描かれているのだ。物凄く強い豪傑かと思えば、心に圧倒的な弱さも持っている…。
たまらなく愛おしくなってしまう。歴史に名を残した武将も、本当はこんな人物だったのかも、と錯覚してしまう。

僕には全くないもの

ハードボイルドさ、というものは、僕には全くないものだった。
タバコも吸わないしお酒は飲み会があれば飲む程度、女性をはべらす、などにも興味がない。裏社会─血生臭い世界も知らない。

だからこそ僕は惹かれたのかもしれない。危ない橋をあえて渡り続けている、男。いや「漢」たちの生き様。
強さとは何か。僕の中には全く無かった、新しい世界を教えてくれた物語。

僕は本当にタバコを全く吸えないのだが、氏の小説を読むと、

「ああこんな時、タバコが吸えたらな」

なんて、思ってしまうことがあるのだ。
大人のバーで、お酒を傾けてもみたくなる。

「先日、友人が死んじまってね…」

俺は、バーテンにぽつりと呟く。
バーテンは何も言わず、グラスを白いクロスで拭いていた。
少し間を置いて、バーテンはおもむろに酒をその拭きたてのグラスに注いだ。

「餞別だ、その友人って奴によ…。旦那、人ってのは、いつか死んじまうもんさ。ただ、忘れない限り、心の中で生きている、ってモンさ」

「バーテン…」

「ただな、人は、忘れていく…哀しいほどに…。いいかい、旦那。忘れていくが、忘れないこと。それが何よりの手向けになるのさ」

目の前のグラスに、口をつける。知らない酒だった。うまいとは、思わなかった。しかしこの酒の味を、バーテンが差し出してくれたこの酒の味を、忘れる事はないだろうと思った。

胸ポケットに手をやる。
俺は、タバコは吸えない。しかし手をやった。涙が溢れそうになるのをこらえるように、胸ポケットの中を探った。
何かが入っている。確信があったからだ。

なぜか出てきた、チュッパチャプス。

それをタバコのように持ち、俺は吸った。

「やつに、乾杯」

ペロペロ。

チュッパチャプスは、タバコより、うまかった。

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