大庭和佳子の子育て人生3

3,就職
1989年4月、日立系の情報システム会社に就職し、私は念願の東京進出を果たした。とにかく東京で就職し自立したかったので、願いが叶った。しかしこの就職もとことん父親と揉めた。
父は、そもそも大学進学時、山口から出ていくことに反対であった。理由は私が長女であり、家を継ぐ跡取りであるからだ。父は養子であったが(当時は長男以外は養子に行くのも一般的であった)男の子がいないため、私に家を継げという…到底聞き入れることは出来ず、両者平行線で、歩み寄りはなかったため、半年以上父とは口を利かなかった。
私はケンカしたくなかったし、出来るだけ説明したのだが、全く聞き入れてもらえなかった。母も祖母も間に入って、相当気を揉んだらしい。あの頃は私も相当若かったね。エネルギーがすごかった。
大学は、最終的に国公立なら認めると、落ち着いた先が静岡だった。
そして今度は就職、また父は全力で山口へ引き戻そうとするのだが、就職したい企業がない…当初決まっていた企業は、すべて支店や事業所が山口にないという理由で、ことごとく反対されて、そんな中、受けたのが日立系の会社だった。山口に支店があり、本社は東京。それならいいと父が言うので、私も折れて決めたのだった。本意ではなかったが、折衷案であった。
バブルの時代で、就職内定もそんなに困らない時代だった。また1985年男女雇用機会均等法が制定されて4年後の就職で、私は総合職しか考えられなかったし、定年まで働くつもりで意気込んで就職した。

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