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母親の死、私の進む道。

私が見ている世界が
どうやって
私の目の前に立ち上がっているのか
もっと知りたい。
そう思った日から始まった長い実験の日々の中で
つい最近の大きな分かれ道の話。


長いこと母とは反りが合わなかった。
仲が悪いと言うのでは無いし
互いの愛情をそれぞれ感じてはいたけれど
あまりに違う価値観にお互い戸惑い合って、
うまく距離感が取れない親子関係だった。

なかなか距離が縮まらない
もどかしさのような
切なさのような、、、
薄〜いのに決してその先には進めないベールがあるような感じ。

双方とも
歩み寄る事も
理解してもらおうとする事も何となく手放していた。

その母が死んだ。

「事故でも病気でも私の意識が無くなるような事があったら、延命措置は絶対にしないで」

まだ若く、年齢だけを見たら
「死」から遠い場所にいるような頃から
母は再三、私にそう言って聞かせていた。
実際、自分の免許証の中や持ち物の中にも
そうした内容を書いたメモを入れ、持ち歩いてもいた。

体調が思わしくない
と言ってから
4日目、
詳しい検査も出来ていない中
母の意識が無くなった。

「延命措置を行いますか?」

母っ子の兄は動揺を隠せず、母の手を握っている。
私は医師の問いに

「いえ。母に言い聞かされていますので、延命措置はしません。」

と答え、兄に

「いいよね?」と言った。

そして、そのまま、
少しだけ小さく声を出しただけで
呆気なく母は逝った。
私はその後、病理解剖の提案も受け入れた。

解剖を終え、帰ってきた母に
兄は寄り添い
「こんな痛い目にまで合わせてごめんね。痛かったね。ごめんね。」
といつまでも泣いていた。

延命措置をしていたら
母はあとどれくらい生きていただろうか?
「延命措置はしないで」と言っていたのは本心だったろうか?
死の間際になった時「やっぱり延命措置して」と
意思は変わっていただろうか?
これから先
私のとった一連の行動は間違いだっただろうか?

私は分かれ道に立っていた。
後悔と言う道と
愛と言う道との。

きっと、他者から見たら
私の行動はひどくクールで
そこに母に対する愛情は無いようにも見えたかもしれない。
私を責める人がいてもおかしくは無いとも思うし
元々、希薄な関係だったから
そうした行動が取れたのだろうと思う人もいるかもしれない。
そうした、「誰か」の視点に立てば
私には《後悔の道》が開かれる。
その道を進み、くよくよメソメソ自分を責める現実を味わう事も出来る。

一方で
母は私を信頼し
兄には耐えられない決断を私に託し続けた。
私には母の意思を尊重し、行動する責任があったし
そうする事が私が出来る母への愛だった。
兄が母の死を悔やみ続けない為の行動も必要だった。
そうする事が、母と兄への愛だった。
それらをブレる事なく実行した。
愛を持って。
その視点に立てば《愛の道》が開かれる。

誰に、
母や兄さえ、
理解されないとしても
私は自身の目線に立っていたい。
傲慢で身勝手かもしれない。
それでも自分くらいは自分にしか出来ない愛のカタチを尊重してあげたい。
何故なら、母を愛していた事を
私は知っているから。
あの時も今もこの先も
この世での母との別れ方を後悔する事はないと思う。
いつか、あの世で母に会った時
きっと「よくやった」と言ってくれるのではないだろうか。
「にしても、アッサリしてたよね〜」と嫌味も言われそうだが、、、。

私は今日も自分が選んだ道を歩いている。
時に胸を張り、時にドキドキしながら。

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