マガジンのカバー画像

馬 執 飯 店

15
「馬 執 飯 店」は、編集プロダクション モメンタム・ホース 出身のライターによる、偏愛的ウェブマガジンです。大変申し訳ないですが、読者のことは一切考慮しない独断偏見スタイルで、… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

飲みながら料理をすれば、夕食は同時に〆にもなる

仕事を切り上げる瞬間がたまらなく好きだ。 「今日はもう閉店」と決め、頭のスイッチを一気にオフにする。 閉店の意思決定は、達成感だけでなく、ある種の諦めとともに訪れることもある。まだまだ直近締切の仕事は山積みだけれど、気力も体力も限界を迎え、やむなく閉店する、そんな日も少なくない。 でもそんな日こそ、閉店後の初動がとても肝心だ。いかにスイッチを切り替え、たとえ短い時間でも良質なオフの時間を過ごすか。それが翌朝の思考のクリアさに、大きく影響している(気がする)。 閉店後の

料理が「できる/できない」問題を考える(あるいは、インターネットがぼくたちから奪ったものについて)

最近、料理をすることにハマっている。ただ、ハマっていると言っても、毎食自炊するわけではないし、ちゃんとやってる人からすれば鼻で笑われるくらいの頻度だろう。 いや、むしろ「ハマっている」と言えるのは、それくらいの頻度だからなのかもしれない。この言葉が使われるのは、趣味や息抜きに対してだろう。毎食自炊をするようになれば、それは生活の一部となり、「ハマっている」という表現とは乖離するような気がする。いくら毎日ちゃんと歯磨きをしていても、歯磨きにハマっていると言う人は少ないはずだ。

25分で観られるコンテンツは、25分ではつくれない

ライターを名乗り始めてから、早いもので5年が経つ。ライター生活の中で最も濃い時間を過ごしたのが、編集プロダクション「モメンタム・ホース」だった。 モメンタム・ホースはすでに解散してしまったが、当時の仲間とは今でもよろしくやっている。 例えば、このテキストも戦友たちと一緒に企画しているコンテンツだ。 編集者の小池真幸くんとライターの鷲尾諒太郎さん、そして僕の3人で「馬執飯店」なるマガジンを立ち上げ、月に一度テーマを決めて自由に文章を書いている。 商業的な文章ばかりを書い

「好きな食べ物は何ですか?」という、地獄の質問について

その質問が、昔からひどく苦手だった。 相手は深い意味もなく聞いているのだろう。何なら、会話を無難に運ぶための、潤滑油として口にしているのかもしれない。 でも、僕はそう聞かれると、しどろもどろになり、ついつい考え込んでしまう。結果として、相手のほうを「悪いことをしたかな」という気持ちにさせてしまい、何とも言えない空気が生まれるなんてことも、よくあった。 「好きな食べ物は何ですか?」。 これがその悪夢の質問だ。初めて一緒に食事に行くことになった人に、何てことのない気持ちで

スーパーで過ごす孤独な時間に、本当の自分が垣間見える

3年前から住んでいる本郷三丁目は、学生街ということもあり、飯が安くてうまい。 上野が徒歩圏内なので飲み屋には困らないし、喫茶店街の神保町も、自転車ですぐ。 祖母がかつて購入したマンションに住んでいるので、住宅環境がめちゃくちゃいいわけではない。それでも「この街を離れるのは惜しいな」と思うくらいには気に入っている。 ただ、少しだけケチをつけるなら、スーパーが微妙。駅周辺に魅力的スーパーがないので、どうしても外食が多くなるし、日常にあるはずの買い物のワクワク感が薄い。 も

夏、サミット松陰神社前店のフルーツコーナーで

友人たちとの旅行の帰り。高速道路を東京に向け走る。深夜になり、ドライバーであるぼく以外が寝静まり、流していたBGMの音量を絞る。静かになった車内で一人、フロントガラスを前から後ろへ流れていく照明灯の光を見送る。 やがて、少しの疲れを覚える。誰の同意を得る必要もない。ゆるやかに減速し、ウインカーをあげ、左側に伸びる道に入る。 そこは、小さなパーキングエリア。停車している車はほとんど無く、室内のかわいらしいお土産屋さんも閉まっている。長時間の運転に疲れたのだろう、うつろな表情

地元に友達がいない──川崎ノーザン・ソウル的リアリティ、サミットという「歴史」について

僕は地元に友達がいない。 親が転勤族だったから地元がそもそもない、というわけではない。保育園から大学生まで、徒歩圏内での小さな引っ越しはしたものの、基本的にはずっと同じ街に住んでいた。 いや、「いない」は言い過ぎか。知り合いはいる。いちおう連絡先も知っている。ほんとうに珍しいケースではあったけれど、小学校の頃の友達と、大人になってから盃を酌み交わしたことはある。 でも、少なくとも、実家に帰るついでに大体声をかける友達や、定期的に会って近況報告をしあうような友達はいない。

アイアム“ノット”アヒーロー。いつかの夢の中で、チュパカブラ的な何かが教えてくれたこと

夢を見た。 舞台はおそらく、どこかの大きな旅館。そこに何やら大勢が集まっているのだが、場にはかなりの緊張感が漂っている。それぞれが包丁や木刀、あるいは鉄パイプのようなものを持っていて、何かとの戦いに備えているのだ。 程なくして、その「何か」の正体が分かる。正確に言えば何なのかは分からないのだが、姿が確認できるようになる。それは、端的に言えばバケモノだ。『ムー』か何かで見た、UMAの一種であるチュパカブラに似ているが、チュパカブラではない。チュパカブラを四足歩行にし、2周り

「世界は変えられる」と自分に言い聞かせる人、「世界は変えられる」と本気で思っている人

決して読書家とは言えないが、文章を書くことで生計を立てているので、少なくとも週に一冊くらいは本を読むようにしている。プロ意識が低いと言われてしまうと、言い返す言葉が見当たらないのだけれど。 読書の目的は、知識を獲得することではなく、語彙を拡充することに置いている。 語彙が多い人間ではなく、表現力が豊かなタイプでもないので、第三者の言葉を浴び、反復することで、自分の言葉をつくろうという魂胆だ。 どこかで見返したい言葉や、自分の語彙として獲得したい言葉は、Evernoteに

夢についての三つの断章

誰しも一つや二つ、ほとんど誰とも共有してこなかった「思い出の曲」があるのではないかと思う。 わざわざ僕が繰り返すようなことではないが、音楽を聴くことの楽しみの一つに、その曲をよく聴いていた頃の記憶や感覚を追体験するというものがある。 その多くは、当時の家族や仲間、恋人、そして名前も顔も知らなくても、同時代を生きた人々と共通のものだろう。昭和歌謡バーのようなビジネスが成り立つのは、そうした記憶をともに味わうことの快楽に、僕たちは抗えない性質を持っているからだと思う。 余談

日常と祝祭。その二項対立を解体する、カネコアヤノという示唆について

僕たちの暮らしとドーピングは、切っても切り離せない関係にある。 ドーピングとは字義通りには「スポーツ選手が競技出場前に運動能力を増進させるための刺激剤・興奮剤などを服用すること」だが、ここではもう少し広く捉えることにする。スポーツ選手ではない僕のような一般ピープルが、思考能力やモチベーションといった精神的なパラメータを高めるために、なにか「刺激剤・興奮剤などを服用」することもドーピング、としておく。 眠気覚ましのコーヒー、踏ん張り時のエナジードリンク、気分を切り替えたいと

アドレナリンとドーパミンの交錯点・日本中央競馬会

入場券をもぎり、ゲートをくぐると、足の長さが揃ったターフが眼前に広がってくる。 微風になびく「たかが」ターフはどこまでも続いており、見る人の心を高揚させる。 そう、ここは東京競馬場だ。 東日本大震災の復興を願い、「キズナ」名付けられた一頭のサラブレッドがダービーを勝ったその日、僕は母親からの仕送りを握りしめ、そこに立っていた。 マツリダゴッホ、単勝9番人気の激走劇 人並みにギャンブルをする父の影響で、日曜の午後は競馬の時間だった。 父はよく「マクドナルドに行くぞ」と

かつて愛したルノアールのこと

五番街へ行ったならば マリーの家へ行き どんなくらししているのか 見て来てほしい 五番街で 住んだ頃は 長い髪をしてた 可愛いマリー今はどうか しらせてほしい マリーという娘と 遠い昔にくらし 悲しい思いをさせた それだけが 気がかり 1973年に発売された、日本のバンド・ペドロ&カプリシャスの代表曲「五番街のマリーへ」の一節である。作詞としてクレジットされているのは、日本を代表する作詞家・阿久悠。 僕はこの曲に、特に深い思い入れはない。ある疲れた夜の風呂上がり、ふるさと

10年後のルノアールで、ぼくが彼に語る2つのこと

朝、起きてコーヒーを淹れる。ぼくの数少ない習慣の一つだ。と言っても、毎日のことではないので習慣と呼べるかは怪しいが、まぁ「高い頻度で行うこと」であることは間違いない。 本当なら小説の登場人物よろしく、ハンドミルでゴリゴリと豆をひき、こだわりのドリッパーでゆっくり丁寧に淹れたいところではあるが、そんな甲斐性などない。粉ではなく、豆を買うのはせめてもの抵抗だ。その豆を自動ミルにぶち込み、挽かれたものをコーヒーメーカーにセットし、後は待つだけ。現在使用しているコーヒーメーカーを選