トラウマを癒すのは「今」の感覚
高校3年の大晦日に、ノロウィルスで倒れたことがある。原因はその日の昼に食べた古いシーフードパスタのソース。
その日は午後から予備校でテストがあり、自宅でパスタを茹でてキッチンにあったパスタソースを適当にかけ、急いで食べて出掛けた。試験中に体調が急変し、自宅に帰ってからも七転八倒し、最悪の年末年始を迎えた。
それ以来、シーフードパスタが食べられなくなった。
あのとき私を苦しめたシーフードパスタと、今、目の前にいるシーフードパスタは全く別の存在だと、頭ではわかっている。
しかしあの苦い記憶は生々しく、社会人になってちょっと良いイタリアンに行くようなことがあっても、変わらずわたしは彼(パスタ)のことを拒絶し続けた。
あれから時が経ち、近年友人宅に遊びに行った時のこと。
おしゃべりに花が咲き、時間はお昼時に差し掛かった。友人がランチを作ってくれることになり、ほくほくしながら待っていたところ、出てきたのはシーフードパスタ。
顔から汗が吹き出るのを感じながら、大丈夫だ、大丈夫だ、、と自分に言い聞かせ、おそるおそる口に入れたところ…美味しい!
友人曰く「シーフードを炒めるときにアヒージョの素を入れてみたからさ」とのことだったが、それを抜きにしても美味しい。きっと丁寧に解凍してくれたのだろう、シーフードの生臭さがまるでない。そしてオリーブオイルとニンニクの香ばしい香りがシーフードと麺の味を引き立てている。ああ10数年、もったいないことをしたと思った。
たまたま牡蠣に当たってから牡蠣が食べられなくなる人がいるように、人間関係でも、過去に苦い思い出がある人と似ている人と出会ったとき、私たちは身構えてしまうことが多い。
そんなとき「相手のいいところを探さなくちゃ」とか「自分が変わらなくちゃ」と、あせって無理する必要は全くない。自分のペースで、深い呼吸をしながら今を感じていく。身構えてしまった相手にはきっと、いつか笑い話として話せる日が来るだろう。
文章でも辛かったことを書いていると心が癒されることがあるが、それは「苦しかったあの瞬間は過去であって今ではないこと」を書きながら再確認するためだと私は思っている。
今目の前にいる人と、過去自分を苦しめた人は全く別の存在であること。私を脅かすものは今はもういないこと。それらをただ見つめられたとき、傷は少しずつ塞ぎ始める。
パスタの皿の中を、もう一度覗いてみる。
エビとイカとアサリが、それでいいよとやさしく耳打ちしてくれている気がした。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。