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言葉は壁にも窓にもなるなら、私はWindows派

文章の先生に「文章の中にふんだんに五感を入れると、書き手と読み手をつなぐことが出来る」とよく言われました。

ただ嬉しかったことを「嬉しかった」と書くだけでは読み手にはピンときません。

「灰色だった見えた世界が色鮮やかに見えた」や「街のざわめきも、私を祝福しているように聴こえた」などと、見えた景色や聴こえた音を書くことで、読み手は頭の中に情景を広げることが出来ます。
情景が広がると、読み手は書き手が生きた世界を追体験することができる、というわけです。

心に響く文章を書くときは五感にまつわることを多く書くとよい、と習ってから早2年。
最近わたしは「2つの感覚を掛け合わせると、より読み手を癒すことができるのでは?」ということを発見しました。

具体例を見ていきましょう。
まずは美空ひばりさんの「川の流れのように」の一節。

ああ 川の流れのように
いつまでも
青いせせらぎを 聞きながら

「青い(視覚)」と「せせらぎ(聴覚)」が、同時に入っています。

次に、谷川俊太郎さんの「春に」の一節。

この気持ちはなんだろう
あの空のあの青に 手をひたしたい

「あの空のあの青(視覚)」に「手をひたしたい(触覚)」。

最後はスピッツの「渚」より。

野生の残り火抱いて 素足で走れば
柔らかい日々が波の音に染まる

「柔らかい(触覚)」日々が「波の音(聴覚)」に「染まる(視覚)」。なんと触覚×聴覚×視覚のコンボです。

ここまで書いてお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、感覚が複数あるというのは、ある意味矛盾していることです。

本来、川のせせらぎは音であって色はないですし、空に手をひたすことも、ましてや日々を波の音で染めさせるというのは、現実には不可能なことです。
しかしこれらの矛盾する2つ(あるいは3つ)の感覚を言葉にすると、なぜか人の心を染み入るものがあります。

一般的に、矛盾していることは相手を困惑させます。パートナーなどに対し暴力をふるった後に抱きしめるといった、矛盾すること(ダブルバインド)をされると、人はどうしたらいいかわからなくなり、生きる力を奪われてしまうとも言われています。

しかし「青いせせらぎを聞きながら」のように「音の色を見るように」「色の音を聞くように」あるいは「光をさわるように」という矛盾した表現には、なぜかあらぶった心も静かになるような効果があるように思えてならないのです。

五感のパラドックスは思考を止めさせ、ただ感覚に身をゆだね生きる力(感受性)を育む、セラピー的な効果があるのではないか・・というのが今のところの私の推測です。

矛盾した言葉は相手を追い詰めることも出来れば、人の心を癒すことも出来る。

言葉は壁にも窓にもなるのなら、誰かの心の窓をあけはなつような言葉を使っていきたいです。

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