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有るものに目を向けると、観察力は鋭くなる

「5センチ以上の鳥の羽を、お金を使わずに、半日以内にゲットする」という研修に、以前参加したことがあります。

私は同じチームの人の何人かと街を歩きながら「そんなものあるはずがないだろう、厄介な研修に参加してしまった」「ああ、早く終わらないかな」と思っていました。すると私のすぐ隣にいた仲間が突然「あ、あれ!」と叫んだのです。

彼の指差す方向を見ると、そこには小さいけれど整備されたきれいな川辺があり、その側に目を凝らすと大きな羽が落ちていました。すぐみんなでそこに行って羽を拾い上げると、ゆうに5センチ以上はある羽でした。

私や同じチームのメンバーも同じ道を歩いて同じ風景を見ていたはずなのに、彼だけがそれを見つけたのです。

驚いた私は彼に「すごいね、どうやって見つけたの?」とか「視力5.0なの?」と質問攻めにしました。すると彼は一言「『どこかに必ずある』って信じながら探してたら、あった」と答えたのでした。

「ほぼ毎日noteを書いている」と人に話すと、大体「すごいねー、よくそんなにネタが思いつくね」と言われます。
人によると思いますが、私はあまりネタが思いつきません。日々、日常からネタを探しに行っているような感じです。

noteを始める前、私は自分の日常を「平凡な独身OLで何もない、つまらない、変化の乏しいもの」と思っていました。しかしnoteを書くためにネタを探すために「書くことは必ずある」という視点に立つようになってから、意外と自分の日常には派手ではないけれど心が動く瞬間が溢れていることに気づきました。
「ない」と思っていた時には見えなかったものが「ある」と思うだけで見えるようになったのです。

先日、素敵な呟きをツイッターで見かけました。

観察力が鋭ければ、日常の情景に祝福を見出すことができる。
さらにそれを表現する力があれば、誰かに伝えることでその祝福を何倍にも増幅させることができる。(大意)


写真をやっている私の友人は「以前は自分の街に花があるなんて気づかなかった。でも写真を始めるようになってから、いつも通る道にも公園にも駅にも、誰かが花を植えていることに気づいた」と言っていました。

観察力を鋭くするために必要なこと。
それは「自分の日常には何もない」ではなく「自分の日常には心ときめくもの、美しいものがたくさんある」と信じるという、意外とシンプルな方法なのではないかと、これまでのことを振り返ると思います。

そうやって自分の心に響いたことを見出す力を磨き、さらにそれを表現し他人に伝えることで、確実に世界はより良くなっていく。
文章を書いたり絵を描いたり、写真を撮ったり歌を歌ったり踊ったり、表現をする意味はそこにあるのだと思います。

日常には祝福も呪いも溢れている。
だからこそ、そこに美しいものを見出し表現できる人は、時に光り輝いて見えることがあるのかもしれません。