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セミナー難民と呼ばれる私が、次にセミナーへ行くタイミング

これまで、数多くのセミナーや講座に大金を投じてきた。きちんと計算したことはないけど、トータルしたらマンションの頭金くらいになってる気がする。

投資した額をビジネスできちんと回収すれば、セミナー難民と非難されることはないだろう。しかし私はまだ、それをできていない。
「小澤さん、いろんな学びの場に熱心に行ってるみたいだけど、結局なにも変われてないよね。セミナー難民だよね」と言われても、その通りですとしか答えられない。

なぜそんなに多くのセミナーに自腹で通ってきたのだろうかと考えると、その答えは「自分との関係性をよくしたかったから」になると思う。

20代は今よりも自責の念が激しく、生きることが辛かった。
特に人生の大事な場面で結果を出せない自分を、必要以上に自分で責めてしまう。その様子はまるで、子どもを殴るのを止められない親のようだった。

大金を払ってセミナーで何を得たのか。何をそんなに必死で様々な講座に通い詰めてきたのか。
振り返ると当時は、自分を客観的に見つめる力を求めていたように思う。

あるとき、何かの講座で「自分の中の自分を見つめる」というワークがあった。
オドオドして何をやっても不器用なわたし。しかしよく見てみるとその子は、まじめで人に分け隔てなく接する、心根のやさしい子でもあった。
それにしても、なぜこの子はこんなにボロボロなんだろう。そう思ってその子をじっと見つめていた次の瞬間、他でもない私が自分をここまで追い詰めてきた張本人であることに気づいた。
あの日を境に、自分と向き合うことを深めていったように感じている。

今、もし誰かに「小澤さん、またセミナーや講座に通うの?」と聞かれたら、私は「私の中にいる小さいひとみちゃんがまた行きたいと言うなら」と答える。
私は30年の月日を得て、やっと我が子をいとおしいと思うようになった親のようなものだ。遅いかもしれないけど、彼女が望むことはできる限りかなえてやりたい。

もし私の中の私が「バイオリンをやりたい」と言ったら、生活が苦しくてもなんとか工面して良い音のする楽器を購入したり、この子と相性のよい先生はどこにいるかを探したりすると思う。その結果がたとえドラえもんのしずかちゃんレベルの演奏で終わったとしても。

ネットでセミナー難民、と検索してみると「危険!あなたもセミナー難民になってない?」「セミナージプシーにならないための、20の方法!」といったページがわんさか出てくる。

もう、私は難民で良いわい。私が望むのは、もうこれ以上この子の翼を折りたくないということだけだ。自分を傷つけてまで受け入れるべき他人の言葉などないと誰か言っていたけど、私もそう思う。

どんなに頑張っても、秋に桜の花を咲かせることは出来ない。
自分にも他人にも「まだ変わっていない」ことへの許容量を持ち、その人の来るべき時が満ちる瞬間まで共に待てる人に、なりたいと願っている。


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