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発信テクニックより大事なもの

ある作家の方に言われた「これからの時代はね、発信力より受信力が大事だよ」という言葉を大切にしています。

多くの人が「発信が大切」といって自分の意見や声を発することを勧めています。

「自分の名前で食べていくなら、SNSは1日最低2投稿はしなければいけない」とおっしゃる方に出会ったこともありますし、
ある程度の集客を必要とする仕事をするなら、確かにブログやSNSなどの発信も必要だと思います。

でもここ数年、ライターとして様々な方の文章を読んでいく中で「人のアウトプット能力って、実はそんなに差はないんだな」ということ、
むしろ表現の世界で問われるのは「何を感じたのか・何をキャッチしたのか」の方が重要ではないかと思うようになりました。

例えば夜、車が水たまりの上を走って泥水がはねたのを見た時。

ある人はただ泥水がはねただけだと思うだけかもしれませんが、別のある人の目には、クリスタルが砕けた瞬間のように映ったかもしれません。

また例えば、雨が降った後に木に張る蜘蛛の巣を見た時。

蜘蛛の巣にとどまる水滴を見て、ただの水の固まりと思う人もいれば、月の光を静かに反射する真珠のように見える人もいるかもしれません。

どちらも、どんな見え方も正しいのです。

ただ後者のような視点を持つ方が書く文章と言うのは、例え技術が伴っていなくても胸を打つものがあり、読む人の心を豊かにしてくれる気がします。

発信力は筋トレのように負荷をかけた分わかりやすく、目に見える形で育てられるので評価もしやすいです。

一方で、自分の心に響いた瞬間を見逃さずに感じられる力は、育むのに時間もかかりますし、目に見える形ではわからないので評価もしづらいことと思います。

それでも人の心を揺さぶる表現者を目指すのであれば、発信の力と同じくらい、自身の内面の豊かさを育てるのは大切ではないかと思います。
育てる、というより「思い出す」といった方が近いかもしれません。

受信力を思い出すために、私はたまに自然の中に入るようにしています。

都会では無駄とされるような倒木もよく見ると側には新芽が生えていて、古い命は新しい命の源になっていること、この世界に無駄なことなど何一つないことを身体で感じることが出来ます。

森だけでなく海も好きです。
ダイバーの方がおっしゃっていたのですが、森の中で寝転んで見上げる木々の景色は、海の中から水面を見上げた時の景色にどこか似ているそうです。

舞台や美術館に行って、他の表現に触れるのも幅を広げるのもいいと思います。本を読んだり、新しい人との出会いに積極的になるのもいいかもしれません。

この世界の光と音を、もっともっと受信出来るようになれたらいいなあ。


最後までお読みくださり、ありがとうございます。書き続けます。