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私が乳がんになった時


2010年、最初のがん宣告を受けた。
こういう時、ショックで頭が真っ白になったとよく聞くけれど、私はそうはならなかった。

夫からも、他人事のように淡々としていたと言われたが、何か問題が起きた時やショックな時、ふっと丹田に力が入り冷静になる。
今、私が考えるべきこと、するべきことは何か? とまず思うのだ。

持って生まれた性格もあるだろうけど、機能不全家族の中で培われたもののように思う。
そうやって我が身を守ってきたのだ。



有り難いことに、早期だったので、慌てて手術や治療に入らなくても良かった。
なので、どういう治療にするかを考える時間があった。
あの頃はまだ、部分切除して放射線治療という方針が一般的で、医師からも9割がそうだと言われた。
でも私のような超早期でもそうなの?
皆んながそうだからとか、医師が言うからとかで決めるの?と思ったのだ。

経験者に話しを聞いたり、本やネットを調べに調べ、私は全摘同時再建をすることに決めた。

今まで、何でも親や夫の反応を見て意思決定をしてもらっていたのに、何故かこの時だけは "自分で考えさせて!"  と思い、
そして本当に自分で決めたのだ。


夫は私が決めた治療方針に納得できないようだったし、母や姉に話すことにも反対だった。
きっと夫の方がショックを受けていたのだと思う。
心配かけることない、終わってから言えばいいと言っていたけれど、それは表向きの理由で本心はきっと違う。
確認した訳でもないし、確認しても言わないと思うけど、母や姉に言うとややこしくなって対処しきれないと思ったのだと思う。



確かにあの人達はややこしい。
その通りだ。
治療方針や病院について、何やかやと言われるかもしれない。
入院中もめんどうかもしれない。
でも私は言いたかった。
遺伝の事があるから確認しないと、と思ったのも確かだ。
でもそれだけではない。
まだどこかで母にすがりたかったのだと思う。母に期待していたのだろう。
経済的にではない。精神的に寄り掛かりたかったのだと思う。
50歳にもなったおばさんなのに。
冷静なはずなのに。




今から思えば、本当に本当に浅はかだ。
まだまだ気付きが足りなかった。

あの人達は私が思っていたのとは全く違うベクトルの反応をしたのだ。
ややこしくてめんどうな方がまだましだ。
そこには情があると思うから。



私が望んでいたような言葉は、今回のような事態でも一切聞けなかった。
電話の向こうで母は、何かバタバタと用事をしながら(治療方針について)
『それであなたはどうするの?』
と言った。その事しか覚えていない。
その後
『あの子はかわいそうで大変なのよ〜』と親戚や知人に話して回っていることがわかった。
面白がっているとしか思えなかった。

姉にいたっては、手術の10日前に電話をしてきて
『従姉妹と兄嫁について話し合う会をするから来ない?』と言うのだ。
その上に
『告知された時ってどうだった?ショックだった?』
『女性として胸を取るってどんな気分?』と言うのだ。
もう理解不能だ。
そして
『お見舞いに来て欲しい?』
と聞いてきた。
もちろん答えはNOだ。
NOしかない。

姉は母に、"お見舞いに来て欲しくないんだって" とだけ伝えて、本当に来なかった。
母も入院費としてお金を送ってきてはくれたが、入院中も退院後も来なかった。


がんになったよりショックだった。

冒頭に書いたように、ショックなことが起きた時、毒親育ちの私は考える。
今考えるべきことは何か? やるべきことは何か?

今は治療に専念しよう。
とりあえず治療だ。
そう思って、母や姉に対しての怒りや落胆や悲しみや情け無さをいつものように全て封じ込めてしまった。
そして、こんなに暴力的な言葉や態度を受けているのに、まだ何とか仲良くやろうと努力したのだ。


がん治療という命にかかわるような局面に来ても、私は私を変えようとしなかったのだ。
治療方針や病院を自分で決めたという一歩はあった。
私にとっては大きな一歩だ。
でも、母や姉との向き合い方とか、自分の本当の気持ちとか、まだまだ足りないことだらけだった。
毒親や機能不全家族のことも知っていたのに、認められなかったというか、自分だけの力ではどうしようもない現実に、がんじがらめになっていたのだと思う。


そしてそれから8年後に反対側の乳がん告知を受ける。


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