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インフルエンサーになりたがる馬鹿

だれの目にも明らかなことを書くのは苦痛だ。
SNSが普及したいまは、アイディアや一芸に特化した人間が一夜にしてインフルエンサーに成り上がれる時代で、運良く成功して大金を稼いでいるひともいる。なにしろ小学生の将来の夢に「You Tuber」と書かれるような時代だ。そのこと自体はべつにどうでもいいし、広告屋としてインフルエンサーを活用させてもらっている立場上、文句をいう筋合いにもない。

ところが、最近はこうした“宝くじ”に自分こそ当選できると考える馬鹿があとを絶たないTwitterになってきた。

先日のことだ。

このツイートに対して、

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とのリプライが届く。
いまでこそアイコンは変わっているけれど、当初はどこかの被写体女のアイコンを借用して「レンタル話し相手」を名乗っていた。

なんというか、この時点で一切の見込みがないことはすぐに分かる。挙句、bioには「人気が出てきたら有料にします」などと図々しい但し書きまで添えてある。やれやれ、というのが率直な感想だった。
というのも、「プロ奢ラレヤー」とか「レンタル何もしない人」がTwitterでウケたのは、その手口に“パイオニア的”な珍しさがあったからで、二番煎じ以下のボンクラが形だけ真似をしたところでウケるはずがないからだ。まず、ここを想像できない時点で頭が弱すぎる。
ましてや、この手のアカウントが成功するためには、アカウント自体のブランディングや“なかのひと”の魅力が重要だったりするんだけど、そのアカウントの顔となるアイコンに他人の肖像を使っているのもブランディングとしては論外だった。これは「人の話を聞く」というパーソナルなコミュニケーションを売りにしているのであればなおさらである。ダサいパワポのワードアートで作ったと思しきホーム画面のロゴまでが痛ましかった。結果、俺の反応は以下のとおりである。

ゴキブリを叩き潰すような正論になった。はっきり言えば、有名アカウントに媚びてフォロワーを増やす云々以前の問題なんだ。けれども、この単純な指摘が「インフルエンサーになりたがる馬鹿」にはどうしても理解できないらしい。もはや悲劇的な頭の悪さである。さすがに物珍しいのか、いつのまにかTogetterでまとめられていた。

要約すると、俺は「有名アカウントに媚びずにフォロワーを増やすには?」という質問に対して、ダメ出しベースでブランディングの欠如を指摘している。

ところが、その指摘を「批判された!」と受け取るのが馬鹿ゆえの悲しさで、マヌケにも質問に答えてしまった俺が、頭の悪い自説で延々と食い下がられる不条理な流れになった。じゃあ質問してくるなよ、という話なんだけど、なにやら要約すると「フォロワーが少ない初期段階では有名アカウントからのRTが不可欠」なので、「最初は有名アカウントに媚びようが他人のコンテンツを引用、あるいは盗用しようが、とにかくフォロワー1000までは増やして、その後に“レンタル話を聞くひと”をはじめる」というビジョン(笑)らしい。

うんうん、なるほどねー。

そんな中身のないアンパンをだれが食うのか、という本質的な問題はさておき、そもそも馬鹿の言い分は論点がすり替わっているんだよね。
俺は、有名アカウントに媚びることなくフォロワーを増やす方法について、聞かれた通り、ブランディングの観点からあたりまえの話をした。
対する「インフルエンサーになりたい馬鹿」は、有名アカウントに媚びることなく“短期的に”フォロワーを爆増させるノウハウを教えて欲しかったらしく、さらに奇妙なことには、いつのまにか有名アカウントに媚びる有効性を頑なに主張するスタンスに変わっているのだった。なんというか、話が噛み合わないのは当然で、俺としては「じゃあ勝手にやってろよ」でしかないんだけど、あるいは反問のかたちで俺のツイートに反論したかったのかもしれない。有名アカウントに媚びるしかないワナビーとしては、せっかくの方法論に水を差されては面白くないわけだ。

にしても、夢とプライドだけが肥大した馬鹿は、ひとたび「批判された!」と感じると、どうしても自分の“正しさ”をタイムラインのみなさまに示さないと気が済まないらしい。

そしてここから、見るも無残な展開に突入する。

まずこれである。

ちゃっかり俺の指摘通りアイコンが修正されていることはさておき、外野からのリプライでも理解力のなさをクソ叩かれていた馬鹿は、どうやらフォロワーの多寡によって言い分の正誤を判定されたと思いたいらしい。

そしてこれ。

このツイートに延々と連なる独自の「自分は間違っていない」理論はなかなか読みごたえがあるんだけど、面白いものだけを抜粋していく。

まず、まともなインフルエンサーによる「ツイッター指南」には、アカウントがどう読まれるか、ブランディング戦略の重要性について最初に書かれているのがふつうなんだけど、どうやら世の中の馬鹿にはこのように表層的な読み方しかされていないらしい。
そしてその部分のみを抽出した薄っぺらい理論を、自分のnoteで次のように翻案して語っている。本人によるスクショを2枚だけ転載する。

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太字で強調された「どう転んでも、見てもらわないいけないんですよ※原文ママはさておき、なにやら有名アカウントにペロペロ媚びる手口を「攻めの戦略」と規定しているらしい。
フェラチオ自慢のクソビッチかな?

そしてまた、これがキツい。

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「思うと思います」はさておき、俺が最初に指摘したのは「自分がどう読まれるかを考える」ブランディングの欠如なんだけど、インフルエンサーになりたい馬鹿は「アイコンやプロフィールがダメだと思われてしまいました」とまるで理解していないうえ「ぼくはかなり良いと思っており、〜中略〜証明できています」という。挙句、質問への答えかたにまで注文をつけはじめる「適切だったのです」には、なにやら本物の風格さえ感じるものがあった。

そして、Togetterにまとめられていることに気づいて大喜びしている。

ところが、まとめに付されたコメントを読むと少々顔色が曇る。

俺も知らなかったんだけど、Togetterにはコメント機能がついているらしく、まとめを読んだ第三者が自由にコメントできるらしい。
ここで注目すべきは、コメントの大半が自分の理解力のなさを指摘しているにも関わらず、まだ「自分は間違っていない」と思える認知の歪みである。

そしてその認知の歪みはまとめ主?にも向く。

「不思議です……>_<」じゃねえよ馬鹿。 
ちなみに、まとめ主?は以下のコメント。

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タイムラインでは馬鹿の相手をしない点、なかなか手慣れていると思ったけど、だいたい俺の説明とも同じで違和感がない。というか、コメント欄の要約もだいたいこんな感じである。現在100件を超えるコメントの大半は、馬鹿を馬鹿として指摘するコメントばかりで、仕方なくタイムラインに引き返した馬鹿はつぎのように宣言する。

「新しいやり方!!」

いまや手垢のついた「有名アカウントに媚びる手口」が「新しいやり方」だったと“気がついた”らしい。革命的な発見である。

しかし、いかに認知の歪みで重武装された「インフルエンサーになりたい馬鹿」とはいえ、ひとりも支持者がいないのは心もとないらしい。やっと現れた“中立な意見”をRTしたうえ、聞かれてもいない自説をリプライで熱弁しはじめる。

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ところが──
リプライも早々にロジックのおかしさに気づかれたのか、あっさり逃げ出されてしまう。これを見たときは少し同情してしまった。

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しかし、つぎの味方も現れる。
こんどは旗色を鮮明にした心強い味方だ。
俺も一緒に拍手したくなった。

引用RTしている意見にも同感である。
なにしろ馬鹿には加減がない俺だ。
そこにすかさず──

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この機に乗じてコメント欄での劣勢も巻き返そうとする「なんでだと思いますか?」である。認知の歪みも辛くなってきたらしい。ここはどうしても「あなたがの方が正しいと思います」が欲しいところ。とはいえ──

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さすがに言い分の正誤まで擁護するのは無理だったご様子。  

しかしこの直後、本人の弁を引用すると
“ものすごい濃いファン”を獲得している。

不思議なことに、俺までホッとしてしまった。

なんというか、認知の歪みきったツイートを数日分さかのぼって唯一評価できると思ったのは、どうにか支持者を集めたい必死な思惑はあるにせよ、自分に向けられたリプライに関してはひとつも漏らさずリプライを返している点だ。結果、自分を盲信してくれるファンを獲得してもいる。

結局、インフルエンサーとよばれる存在は、ファンによって成立している。
「ファンを獲得する」ために大切なことは、数字としてのフォロワー数ではなく、皮肉にも本人自身が証明しているように「コミュニケーションに向き合う誠実さ」にあった、ということなんだ。だからこそ、一貫した人物をタイムラインに見せるブランディングが重要になる。フォロワー数というのは本来、そうしたブランディングの背後で“結果的に増える数字”で、ただ参照を稼ぐための手口で増やしたフォロワー(=数字)のなかに、ほんとうのファンなどは生まれるはずもない、ということだ。議論としてはこれが結論になる。

ところで今回、また馬鹿の相手をしたせいでタイムラインを散らかしてしまったと思っていたけれど、予想に反して俺のフォロワーは少々増えていた。対する「インフルエンサーになりたい馬鹿」は、ここまで盛大に宣伝してやったのにもかかわらず、この記事を書いている時点では微妙にフォロワーを減らしているようにも見えた。これをさきほどの結論に照らしていえば、タイムラインからの眺めでは、どうやら俺のほうに「コミュニケーションに向き合う誠実さ」があった、という話だと思う。

もう1点、気がついたことがある。
これは俺もどこかで薄っすら自覚はあるんだけど、「コミュニケーションに向き合う誠実さ」は、ほとんど孤独と表裏である、ということなんだ。ひとを癒したいカウンセラー志望が、ほんとうに癒したかったのは実は自分自身であることに気がつく話があるんだけど、それと似たように、「レンタル話し相手」を標榜する本人自身が、実はいちばん「だれかに話を聞いて欲しかった」のだと思う。気の毒だなと思った。俺は面白半分に記事にまとめて馬鹿を笑っているけれど、心のどこかでは「インフルエンサーになりたがる馬鹿」のファンがひとりでも増えることを願っている。

その一方で、このような「インフルエンサーになりたがる馬鹿」を大量に生み出したのはいったいどこの馬鹿なのか。俺はまず第一に、このふざけた世相にキレたいものである。インフルエンサーなんてロクなもんじゃねえよ。地道にやれ。そして地味なやつは地味にやれ。

なんというか、「だれでもインフルエンサーになれますよ!」などと適当な嘘を囁くのは大人のすることではない。どうせ馬鹿は自分に都合のいい部分しか読まない。とすれば、「インフルエンサーになりたがる馬鹿」に対しては正しく突き放すのが大人のすべきことかもしれず、いまにして思えば俺の助言が間違っていたような気がする。

だれの目にも明らかなことを書くのは苦痛だ。
けれども、誤解のないように伝えるべきだった。

「おまえにはひとの話を聞く能力もないし、多くのひとに向けて発信できる才能も見当たらない。さっさと諦めろ」

これこそが「インフルエンサーになりたがる馬鹿」に対してなされるべき助言である。

率直であること。本音であること。
やはりTwitterでは、だれにも媚びず、諂わず、
言いたいことだけを真剣に言うべきだ。
多くの場合それが「言うべきこと」でもある。

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10/18 追記
この童貞、意外にもブログの記事は面白かったので宣伝しておく。
なんというか、風俗の話を面白くしている「本人の人物」がそのままタイムラインに顔を出すと、途端に頭のおかしい馬鹿に見えるのは仕方のない面もあって、“コミュニケーション込みで面白みが出てくるTwitter”をありがちな方法論に則って使うのは向いていなかったのかもね。


CMのあと、さらに驚愕の展開が!!