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日常生活における 平和 モーガン・フィッシャー

 私が途中の光景に、あるいはインスピレーションを与える新しい音楽の女神ミューズ(“Muse-ic”!)に注意すればするほど、ますます私はスピリチアルになり、気づき、静かになる。
 そして、私は日常生活のなかで平和を感じて、とくにどこかに行く必要も感じない。

                      ―モーガン・フィッシャー

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去年の暮れ、あるパーティーにて

 スピリチュアリティや気づきや静寂は、私たちが寺院で瞑想したり、どこか牧歌的な場所に行ったときにだけ見つかるのだろうか?
 私なら日常生活のあらゆる場面で見つけられると思いたい…。

 これからのお話は、その証拠となる、私が最近体験したあるシンプルな出来事だ。
 去年の暮れ、私はある親友の家でのパーティに招かれた。そこに行くには自転車で30分ほどかかる。寒かったので、あたたかく身づくろいをして家を出た。その家は都内の人通りの多い大きな通り沿いだったので、できるだけ急いで、なるべく早く向こうに着いてあたたまろうと決意した。
 私の思いは、できるだけ早く、友人のすてきなあたたかい家に着くという目的に全面的に集中していた。信号待ちをしなくてはならないときや、自分より遅いほかの自転車のうしろになったときにはジリジリしていた。急げ、急げ、急げ…!

 その甲斐あって、向こうにはいい時間に着いて、クリスマスの明かりでいっぱいの居心地のいい家のなかで、たくさんの友人たちとのパーティをとことん楽しんだ。

 パーティの最後に、友人は「もし、寒い夜に、家までサイクリングする気分にならなかったら、ゲストルームに泊まってもいいよ」と言ってくれた。もちろん、私はありがたくお受けして、ぐっすりと安眠した。

 翌朝、服を着るとき、私はズボンのポケットにいつも入れている自宅の鍵がないことに気がついた。私は部屋中を見まわし、次に家中を見てまわったが、どこにも鍵は見つからなかった。
 友人と私は、おそらく昨夜来るとき大急ぎでペダルをこいだので、ポケットから落としたのだろうという意見に達した。

移動の速度が遅くなるほど、人生は豊かになる

 家に帰る道すがら、私は非常にゆっくりペダルをこぎながら、鍵が見つからないかと、落としたと思われそうなところ、道や縁石や舗道を注意深く見てまわった。

 このとき、私のペースは非常に遅く、また非常に注意深く、小さな鍵を求めて、周囲のあらゆる細部に注意を払った。いつもの速いペースで自転車に乗れない最初のイライラがすぎると、私はたくさんの愉快な事柄に気づきはじめた。

 小さな花、猫、犬、小さな足跡、おもしろい店、かわいい子どもたち、やさしげなお年寄り…私はほんとうに楽しみはじめ、同時に家に帰るのに長い時間がかかることも気にならなくなった。じょじょに私の心配は消えて、自分のまわりで起こっていることに対する興味が増した。

 そうしているうちに、私は自分がただ鍵を探しているのではないことに気づいた。
 私はあらゆるものに目を向けていて、混雑した通りにふんだんに見つかる、たくさんの魅力あるものを楽しんでいた。ただ見るだけでなく、おもしろい物音を聞き、食べ物や花の匂い、ガソリンスタンドの臭いさえも楽しんだ。
 言いかえると、自分が移動する速度が遅くなるにしたがって、私の人生豊かになっていたのだ。実際のところ、時間がゆくりになったようには思われなかった。時間はますます問題にならなくなっているようだった。そこにあるのはただ、美しい静かな一瞬一瞬がつづいているだけだった。

 すると突然、私は家に着いていた! 私には信じられなかった! 時計の時間にすれば、たぶん昨夜の旅の二倍の時間はかかっていたに違いない。だが、それはずっと速く感じられた。実際、時間などまったくたっていないような、まるで時間が止まったような感じだった。

 前夜の移動のほうがずっと長く感じたのは、私がイライラして、ただ急いでいたからだ。目的地に着くことを──ここにいることではなく。今日、私は小さな奇跡を体験した。そして長い間に体験してきたことより、もっと平和で楽しく感じた。

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静かに、繊細に…中断を楽しむ

 なぜ、この話をするかというと、実は「ハートミューズ」という私のアルバムのレコーディングについて書いてくれないかと頼まれたからだ。

 この話をするのは、自宅への帰り道での自転車の乗り方は、私がこの音楽を演奏した方法とまさに同じだったからだ。
 私は楽譜を持たなかったが(ちょうど地図を持たなかったように)、自分が行きたい道を「ある意味で」知っていた。つまり、自分がどんなメロディを演奏したいか、大まかな構想は持っていた。

 私は自分が奏でる一音一音に耳を傾け、その一音一音が、次の音がなにか、それをいつ、どう演奏するかを「決める」にまかせる。ときどき、音楽のなかに短い中断が聞こえるかもしれない。それは音楽が望むところに行くように、私が自分と音楽に時間を与えているからだ。

 私はその短い中断を本当に楽しんでいる。その小さな未知の瞬間、次の音がどうなるのかを感じ取ろうと、非常に静かに、しかし非常に油断なく、感じすましているその瞬間を。
 ときにはあるメロディが終わって別のメロディに。または別の音、別の空間に移ることになる。というか、私の注意が自分の鍵を探すことからゆっくり移動し、ゆっくり通りを自転車で下りながら、周囲の小さな光景を楽しむことに移っていくのに似ている。

 「あ、公園だ!」
 「お、あのレストランから、なんとすて きな匂いが」
 「お、見ろ、あの遊んでいるかわいい子どもたちを」

 自分でなにも努力しなくても、ひとりでに展開していく物語。
 私は、ただ注意深く開いている以外、なにもしなくていい。
 そして、私が途中の光景に、あるいはインスピレーションを与える新しい音楽の女神ミューズ(“Muse-ic”!)に注意すればするほど、ますます私はスピリチュアルになり、気づき、静かになる。

 そして私は日常生活のなかで平和を感じて、とくにどこかに行く必要も感じない。
 実際は、より強烈に、ここにいることによって、どんな計画も手放すことによって、今ここのなかにくつろいでいく。
 そして、たとえ、ときに自分の鍵を失くすことがあったとしても──どうなったかって?…私が家に帰り着いたとき、それは玄関の前にあったのだ! 万事よし!

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モーガン・フィッシャー

世界を舞台に活動するミュージシャン。
キーボード奏者としてはラブ・アフェア(1968 年全英 No1 ヒット)、モット・ザ・フープル(デヴィット・ボウイのプロディース)、ヨーコ・オノ、クイーン、REM、YMO など、世界有数のアーティストたちと共演。メディテーション・ミュージックのほか、さまざまなスタイルの CM、映画音楽を手がけている。
芸術写真の分野でも、抽象写真において独自のスタイルを確立。
ソロライブ活動で、ライトペインティングを映しだしながらの即興活動を行っている。


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