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えつこの部屋 すぴんおふ ④マニーシャ・ジェイムス

今回のインタビューは、インドツアーで訪れたプネーにて。
よく笑い、歌い、踊り、テキパキとお仕事をして、そしてうつくしく、エレガントで、どの瞬間も生き生きとしているマニーシャ。
ちょっとドキドキしながら、女性としても尊敬している大好きなマニーシャに、瞑想はどのように日常に役立つのか? いそがしい人々はどのように実践するのか? など、歓びとともに生きるヒントを語っていただきました。
ご一緒にお楽しみください。

瞑想は自然な、もともと備わっている状態です。

えつこ あなたのプライベートな生活や仕事において、瞑想はどういう意味がありますか?

マニーシャ 私にとって瞑想というのは、私個人にとっても、また私のワークショップや個人セッションで強調していることでもありますが、「気づき」です。
 それはどういう意味かというと、気づいていて、その瞬間にいるということです。しかも、リラックスした状態でいることです。
 そこにある物事に目覚めるには、自分自身の3つの側面に気づくことができるようになる必要があります。自分の身体、その時に起こっている感覚、マインドと横切っている思考。それには感情的な側面とフィーリングも含みます。

 この内側を観ているということは、抑圧することではないということを理解することが大切です。
 例えば、自分のフィーリングを抑圧するというのは、それが存在することを無視したり、押し込めることをいいます。
 フィーリングをただ観察することができた時は、それが存在することを受け入れ、意識的にそのフィーリングが表現されるままにしているか、あるいはそのフィーリングに対して何もする必要がなく、それがあるのを観ています。

 気づきだけでは物語の半分です。人生は、私たちが開いて、くつろぎ、愛に満ちて、フィーリングのすべての側面に触れることがなければ、砂漠のようなものになってしまうでしょう。
 そして瞑想はマインドに敵対するものではないし、考えることに反対するものではないということを覚えておくといいでしょう。
 マインドは驚くべき能力ですが、同時に他の能力と同じように、その限界もあります。  
 私の経験からいうと、どのようにして、それとともにいて、同時に気づいていることができるかがわかった時、その時は、そのことについてもはや考える必要がなくなる、ということがよくあります。気づきだけで十分なのです。

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瞑想は、自然な、もともと備わっている状態です

 問題は私たちが心身(mindbody)に同一化し、様々な感覚や思考やフィーリングでいっぱいになり、それらが生来の状態とつながることの邪魔になってしまうことです。
 そこで瞑想のメソッドが助けになるのです。それらのメソッドは、私たちがすでに私たちの内側にあるものにアクセスする助けになります。
 別の言い方をすると、私たちは瞑想を「創り上げる」必要はないのです。私たちはあらゆる類の「やること」を止める必要があります。そしてその中へとくつろいでいくのです!

 ですから、瞑想のメソッドは最初のうちは助けになります。
 しかしだからといって、永遠に役に立つというわけではありません。
 私たちが日常の活動をしているときに、一日を通して気づくことができるようになれば、メソッドは落とすことができます。

いま、この瞬間を生きる

えつこ 多くの人たちは、毎日忙しく過ごしていて、周りのことを気にしながら毎日を生きています。 楽しいもの、美味しいもの、物質的な生活には満たされているけれども、心が満たされていない感じがあって、 でもどうしていいかがわからないという人たちがいます。
 そういう人たちにも瞑想は役に立ちますか?

マニーシャ 私が見る限り、人生のあらゆることは楽しんで、感謝すべきものです。 そして、全ては、自分自身も含めて、一時的なものだと観察するのは賢明です。
 瞑想が唯一不変なものです。
 OSHOが言うように、瞑想だけが、死ぬときにも自分と一緒に持っていくことができる唯一の側面なのです。
 あなたが言うように、私たちのほとんどは他の人たちの期待などに沿って生きています。
 パーソナリティは社会的に形成されたもので、いい娘であったり、意識的なビジネスマンであったりという役割を演じることに巻き込まれるのは、パーソナリティのレベルです。
 別の表現をすると、私たちは他人に従って生きようとしていて、自分自身の、ユニークな道に従って生きていないのです。

 瞑想を通して、素晴らしい明晰さの感覚がやってくることがあります。
 別の言い方をすると、パーソナリティを超えた、自分は誰かということについての理解です。それとともに、自分は人生でどこに行きたいのかという、方向性の感覚がやってきます。
 それぞれの人にはそれぞれの道があり、他の人の期待を満たすためにいるのではなく、自分自身に真実であるために存在しているのだということです。
 OSHOは、人生とは内側に成長していくための機会だ、というふうに話していますが、それはつまり、意識的になるということです。

 昨日中国人の女性にセッションをする機会がありましたが、彼女は「私の人生は全く無意味だ。それがどうしてなのかわからない。」というふうに話すところから始まりました。
 それで、私は彼女と一緒に、何が彼女の人生をそうさせているのかということを探っていくことを助けていきました。 
 すると彼女はこう結論づけました。「私にふさわしい人が見つかれば、私は安全で、家庭があって、私の必要なもの全部が手に入る」と。
 そこで私は彼女に尋ねました。「あなたの友達を見渡してみて、幸せな人たちが見つかりますか? 満足している人たちがいますか?」。
 そういう人たちは見つからない、ということを彼女は認めざるを得ませんでした。
 そうだとすれば、彼女がこれまで探していたことの全ては、彼女が求めている満足を与えないだろう、ということを彼女は理解しました。
 そこで彼女は言いました。 
 「今はそう言えるかもしれないけれど、家に帰ったら、また事情が違うでしょ。」と。
 そこで私は言いました。
 「今起こっていたことを、ちょっと信頼してごらん。あなたが今理解したことを。そして次の瞬間は、この瞬間からやってくるということを。」
 そこで私は、私たちのマインドの傾向ということについて少し話しました。
 マインドというものは過去に戻って、すでに過ぎ去ったことに恋こがれ、かと思うと、常に未来の夢や憧れに飛躍する傾向があるということについてです。
 私たちはこの瞬間を未来への踏み石と見ることもできますが、この瞬間それ自身に価値があると見ることもできます。

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 突然彼女は言いました。
 「なぜ私の人生がそんなに無意味なのか、今やっと理解できました。私はこの瞬間を生きてこなかったんです!」
 そして、彼女は本当にそのことを理解しました。それは彼女にとって、とても強烈な洞察でした。
 「自分の人生には意味がない」という哲学的な質問から始まって、その彼女への答えは本当にシンプルなものだということを発見しました。
 ただ、その瞬間を信頼すること。その瞬間にいるということです。

好き嫌いの判断をせず、すべてを受け入れる

 また別の人は、毎日の人生の中で、他の人を非難したりして、どんなに自分が何事にも反発しているのか、ということについて話してくれました。
 しばしば自分が話し始めるまで、全くその自覚がないのだ、と。私は、私たちみんながある程度このように反応していると思います。内側で、人生に欲しくないものや自分の中で好きではないものを拒絶しているのです。

 とても素晴らしい瞑想があります。非常にシンプルで、とても効果的です。それは全く真逆の方法です。
 それは「あなたの存在の全てを含む瞑想」と呼ばれています。
 内側で「これは欲しくない」「あれは嫌いだ」と言う代わりに、何であれ、自分から進んで、この瞬間にあるものを内側で抱きしめるというものです。
 今自分がどんな状態であっても、それがどんな思考であっても、どんなフィーリングであっても、その全てを含んでいく。
 ですから、それがなんであっても、あなたは自分が好きか嫌いかということについての判断は持たないのです。あなたは、ただシンプルに受け入れます。「今これが起こっている」というふうに。

 そうすると、自分が欲しくないと思っていることに対する、内側の緊張や葛藤の全てがなくなってしまいます。それとともに、深いくつろぎが
あります。
 あなたは電車に乗っていようと、買い物をしていようと、オフィスにいようと、練習してみることができます。

 ですから、私が提供している「忙しい人のための瞑想」というワークショップでは、そのような多くのシンプルな瞑想を実験していきます。
 私はそれが現代人の瞑想のやり方だと思っています。ほとんどの人は、一日の始めないし一日の終わりに一時間瞑想するという贅沢な時間はありません。 
 私たちに必要なのは、私たちが毎日の生活の中に即席で取り入れることができるテクニックなのです。
 そしてOSHOはそういう多くの瞑想のテクニックを提供してくれています。

一服のお茶のように

 私は、瞑想は一服のお茶のようなものであるべきだ、というOSHOの言葉が好きです。
 一日中お茶を飲み続ける必要はないのです。ただ、瞑想の一服だけでいいのです。そのちょっとだけのことが助けになります。

えつこ OSHOは、「瞑想は24時間の活動である必要がある」とも言っていますね?

マニーシャ  それには段階があると思います。 私たちが瞑想の世界に足を踏み入れた時には、内側の世界というものに馴染みがありません。パーソナリティを超えた自分というものについて、なんのことかわかりません。
 ですから、最初にはメソッドが必要です。それによって内なるスペースを見つける助けになります。それから、一歩一歩進んでいって、ひとたびそのスペースの味わいを経験すると、そこから世間に出ていけばいいのです。
 例えば電車に座っていて瞑想することもできます。ヴィパサナをしてもいいし、「自分の存在に全てを含む」という瞑想でもいいですし。そのような瞑想がいっぱいあります。それを自分の日常生活の一部にしていけば良いのです。
 次のステップは特定の瞑想を実践するのではなく、ただ気づいているのです。
 くつろぎながら、開いていて、愛に満ちている。自分を覚えているようにします。  
 サマサティ(正念)ブッダとして。
 それが究極の生きている瞑想です。

マニーシャ・ジェイムス

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1947 年オーストラリア・メルボルン生まれ看護士と助産婦としての教育を受け、精神医学について学ぶ。1974 年、インドの神秘家OSHOとの出会いが、期せずして彼女の人生を180 度転換させることとなった。その後15 年間、OSHOの傍らで過ごし、彼の著書の編集長を務める。彼の初期の瞑想法の実験台を勤める幸運にも恵まれ、日課だった講話の質問の語り手として、あまりにも有名。著書も多数、「和尚との至高の瞬間」(市民出版社)は日本語で入手可能。その後20 年にわたって、意識的な生と、意識的な死
に焦点を当てたワークショップやリトリートを世界各国でファシリテート。OSHOと過ごした長い年月からインスピレーションを得て、広範囲にわたる瞑想テクニックとシンプルなストラクチャーを用い、意識的な死を探求するための安全なスペースを提供している。
マニーシャはまた、死に直面した人々への心理的・スピリチュアルなサポートを実践する中で、自らを「彼岸への助産婦」と呼ぶこともある。
また、OSHO の本「meditation for busy people 忙しい人のための瞑想」の編集も手がけている。

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『死について41 の答え』
OSHO 著
マ・プレム・マニ-シャ 編集
伊藤アジータ 翻訳
OEJ Books
定価2,460 円(税込)
死の恐怖をくつがえし、生きる勇気をもらたす魂の実用書。
「死を人生の最高の贈り物にするために」OSHO の全著作650 冊のから、いかに生き・いかに死ぬか」についてのエッセンスを抽出。

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『和尚との至高の瞬間』
マ・プレム・マニ-シャ 著
市民出版社
定価2,090円(税込)
OSHO の講話での質問者としても著明なマニーシャが、OSHO との出会い、そして内なる瞑想体験など、常にOSHOと共に過ごした日々の興味深いエピソードを、内面を見つめながら真摯に綴った一冊。

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今回の特集は、「スピリチュアリティを仕事に生かす」です。 さまざまなお仕事の方に執筆していただきました。 見えないものを言葉にするというの…

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