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フリーランスコーチという言葉を再定義してみる

「フリーランスコーチ」と名乗り始めたのは3年くらい前からだ。オンラインビジネスに挑戦しようとTwitterのアカウントをいじっているときに、「自分はいったい何者なんだろう?」と考えて、当時一番しっくりくる肩書きをつけた。

一応他の人と被らないかどうかもチェックした。「先駆けだ!」と主張する気はないが、当時は「フリーランスコーチ」と名乗っている人は僕が探す限りでは見つからず、きちんとリサーチをした上で名乗り始めたことを覚えている。

あの時と今とでは時代が違う。「フリーランス」という働き方の認知が進み、同時にコーチングがブームになり、「コーチ」という概念もそれなりに(本当にそれなりにであるが)広まったと思う。

よって自然と「フリーランスコーチ」という肩書きにたどり着いた人も、かなりの数いるんじゃないだろうか。

というか僕もきっとその1人だったんだと思う。探せばきっと先駆者がたくさんいたのだろうけど、「自分でたどり着いた!」という気持ちでいたかったから、調査も甘かったんじゃないかな。

今僕は「ひとり言語化強化週間」をやっていて、と言ってもそんなに大層なものではなくただnoteを書き散らしているだけなのだけど、自分が今までやってきた事を破壊して再構築を試みている。

その中でこの「フリーランスコーチ」という概念にも向き合ってみることにした。

フリーランスの語源は「傭兵」にあるらしい。どこにも所属しないフリーの兵士(つよい)が、国や軍に「必要な時にだけ」短期的に雇われること。起源はここにいるらしい。

今の時代なら企業で働く「フリーランスワーカー」がそのまんまの形ではないか。ライターとかプログラマーとか、優秀な人がプロジェクトごとに会社に雇われる。

所属しないぶん無駄な規則もなく、実力を買ってもらう形でチームに所属する。これが現代の「フリーの傭兵」だ。

一方僕はどうだろう。自分の時間を買ってもらうという点ではフリーランスと言えるかもしれないが、傭兵っぽさは全くない。そもそもチームには所属していない。

むしろ「自分の所属を自分で作っている」感じだ。小さな独立国家というイメージに近い。誰かが参加してくることはあれど、参加しにいくことはあまりない。

そう考えると「自由に働いているからフリーランス」とくくることは難しいのかもしれない。言葉の定義の問題だからどうにでも言えるけれど、僕にとってこの部分は大事だ。

だったらなんだ。すぐに出てくるのはやっぱり「起業家」という言葉だ。僕は「実力を買われて」自由になったのではなく、「場所そのものを作って」自由になった。

こう表現するとわかりやすいかもしれない。フリーランスは「ゲスト」で、起業家は「ホスト」。招かれるのがフリーランス、招くのが起業家。取引先から招かれているか、招いているか。こ??これはかなり的を得ているんじゃないか??

そう考えると僕は「招かれた経験」が極端に少ない。起業2年目くらいまでは外部のセミナーに呼ばれたりしていたけど、セミナーはいつも開催する側だった。今の仕事も「おいで」とは言うけれど「行きます」はほとんどない。基本的に常にホストだ。

場を起こし、人を招き、業を営んでいる。これは起業家の生き方だ。「会社を作ってねえからフリーランスかなぁ〜」と漠然と思っていたけれど、冷静に考えたら納税方法の違いでしかない気もする。会社を作ってフリーランスをしている人だってごまんといる。

気づいてしまった。僕は「フリーランスコーチ」ではない。雇われていないし、招かれてもいない。ゲストではなくホストだ。つまり「起業型コーチ」だ。

言葉の定義を作り直すと、自分の仕事と出会い直せる。破壊と再生。スクラップアンドビルド。僕はこれからも人を招いて生きていく。半径5mの小さな国を作って、手の届く範囲の人と楽しく生きていく。

そう、今だってエアコンの効いた部屋で寝ころびながら記事を書いている最中、膝が触れる距離に奥さんがいる。隣の部屋には愛しのマイドーターが寝てる。

noteを書けば「感動した」と長文を送りつけてくる読者がいる。わざわざお金を払ってまで会いに来てくれる愛しい人たちがいる。僕が大事にできる「5m」はそのくらい。じゅうぶんすぎる。

僕の生き方はこれでいい。愛すべきお前らをもてなして生きていくんだ。そのために言葉を定義している。どうせ招かれるなら綺麗な部屋の方がいいでしょう?

僕はここにいる。必要な時に近づいて、元気が出たらまた自分の世界に帰ったらいい。そうやって生きていく。そうやって、生きてこ!

いただいたサポートはミックスナッツになって僕のお腹の脂肪として蓄えられます。