正義について徒然と

 今回はなにも考えず、見切り発車で正義がどういったものなのかを適当に連ねていこうと思います。少々、正義を捉え直さねばならぬ事情が存在するのと、突然の無気力さに対抗するために。ブログなんてこういうものですよね。

1.個人的定義

 まず、正義とは言っていますが、この世に正しいことは一つとて存在しちゃおりません。であるが故、正義というネーミングは少々誤謬を生みやすい表現であるなと常日頃から感じております。義というのは人の意志みたいなものでしょうから、直訳で正義っていうのは「人間として正しいこと」なんですかね。
 正義は悪と戦う、というのは、読者がカタルシスを得やすいように筆者が見せ方を工夫してるか、ファンタジーを導入した絶対悪を創造しているための常識だと思います。実際、近年はマンネリ化を回避するために正義と正義がぶつかり合う物語も増えてきましたね。正義と正義がぶつかり合う、って、字面に表すと本当に矛盾した滑稽な文章ですね。ぶつかってるのは義と義です。勝った方が正しい。
 基本的に、多数派が正義となります。この考え方は民主主義的でもあります。少数派は少数であるが為に悪になるので、そこに理不尽を感じて憤るのは当然の帰結です。この多数派と少数派の相互理解を促進させよう、というのが近年のダイバーシティだと思っているのですが……どうやらダイバーシティが正義だと勘違いしている人も多いらしく。中々上手く行きませんね。多様性って難しいんですよね。果たしてレイシストを多様に含めて良いのかって考えると、それは違うってなりがちです。私としては、心の中で思ったり、個人的範疇での決定権に用いるくらいなら良いんじゃないかなぁとも考えていますが、そこに倫理という大きな壁があるので、一筋縄ではありません。レイシストに人種差別ゼロの交友を求めるのは、ヴィーガンに肉も食べるよう求めるのと同一な気もします。だって、そっちの方が「健康」ですしね。
 閑話休題。人間は自らが正義だと勘違いすると、暴走する傾向があります。自分が正義なら、自分の思うままにすればいいんですから、単純ですものね。神話か何かでの、天使と悪魔の殺害人数の歴然たる差は有名なものです。考えてみると、そもそも人間も動物なので自由に生きたい、という欲望と、自分=正義とすることで何を信じればいいのかを分かりやすくする思考放棄の二つが原因として挙げられます。いっそこの世から正義という言葉をポリコレすべきなんじゃないかなぁと、書きながら思ってきました。代わりに義にしましょう。

2.正義は宗教的かも

 と、今思いつきました。絶対悪とか、絶対正義とかを考えていくと、確実に人間の枠に収めるのは不可能です。となれば人智を超えた神様の出番ですね。神様が正義であり、悪魔が悪である、とするのは、誰一人として否定はしないのではないでしょうか。あ、でもゼウスとかにも悪い所はありますね。まぁ、もう少し上の、こう、概念抽象的な神様ということにして下さい。
 宗教であれば、正義と悪が存在してもいいですよね。あれは人間が何を信奉するのか、という部分を煮詰めた結果の原初からある文化ですから、正義という言葉が認められます。定義として「私が信じているものですよ」と付した上で、正義を謳っているので、そこに矛盾も糞もありません。それに宗教には物語が存在することがしばしばです。繋がってきましたね。
 正義というのは宗教上でのみ許される言葉であり、故に人によって違うし、一般的な正義なるものも存在しない、と。うむ、中々筋が通ってて溜飲の下がる結論ではないだろうか。
 本当に、宗教って偉大ですよね。現在の勢力みたいな捉え方をする宗教はあまり好ましくないですけど、唯心的にとても正しい文化だと思います。現代に連れて薄れてきているのが実に惜しまれるというか、なんというか。皆さんにも、宗教について考えてみて欲しいです。唯物論が嫌いな私より。

3.日本における正義

 では、無宗教的な日本における正義とは如何程なものかと。現状の結論から申し上げますと、ぐっちゃぐちゃです。もうエンタングルもエンタングルと言いますか……。
 無宗教なので、明確な正義なるものは存在しないはずなんですよ。日本の古い文化とかを考えてみると、その頃には儒教とか仏教のために正義はありました。仁とか、情けとか。今でも仁義っていうのはヤーさんの間で使われる言葉ですね。あれもまた、抗争といったものが頻繁に行われることから、宗教的ではあるのかもしれません。ヤーさんには詳しくないので、話はここまで。
 無宗教の模範的日本人の中で正義がどうなっているのか。これは、仏教も儒教もキリスト教も混ぜ混ぜになったものですかね。まぁ、経典が無い以上、日本での正義の定義はできません。食い違います。きっと、日本に海外文化が流入しまくったことも因子でしょうね。ただ、食い違うまでなら良かったんです。そりゃあ信ずるものは人によって千差万別です。私も私の宗教を信じてると言っても過言ではありません。
 しかし、ここに現れる「正義」なる言葉。浅薄に調べましたが、やはり本来の意味と現在の意味は全く違いますね。外国語に、適当に「正義」なんて言葉をつけた結果、その意味が揺らぎます。もしかして、翻訳には言語学者よりも哲学者の方が適任なのではないだろうか?
 で、その後宗教が薄れた日本で「正義」という言葉を見た奴が、「正しい意志って意味なのか」と勘違い。火のないところに煙は立たないため、正義という言葉がある以上、正義が存在するのだと錯覚します。ここで、勤勉なる日本人は、謙虚な心と他者への思いやりから、こんなことを考え始めます。

正しいって何なんだろう。これを知っておかないと、人人に迷惑をかけるかもしれないぞ。

 そして正しさを追い求め始めました。ある人は宗教が正しく、ある人は動物愛護が正しく、ある人は自分が生きるのが正しく、ある人は迷惑をかけないことそれ自体が正しく……。日本に限った話ではないのかもしれませんが、根底に宗教意識のない日本では、これが顕著に現れてもおかしくはないです。「宗教」と「正義」を別個に捉え、正義に多様性は無いと勘違いしたひと握りの人々。これらが今も様々な場所でぶつかり合っています。いや、宗教に触れなかったのが問題なのかもしれません。いずれにせよ、Twitterで繰り広げられる論争の多くに「宗教」と「正義」を同一視しない現象が絡んでいるのではないか、と私は推論しました。

4.終わりに

 いかがだったでしょうか。私は話が長いのと、注意が散漫なので、こういった一筆書きの文章は見苦しい点もあるでしょうし、後から自分で「あ、これは違うな」となる点もあるでしょう。
 〆に丁度いいので、ここに一つ。私の正義の一つは、「絶対に考え続けること」です。まぁ自分の正義なので、守れないこともよくありますけどね。
 これを読んで、正義とは、宗教とは、と私のように頭を捻って下さる方がおりますと、私としても幸甚なことであります。
 ありがとうございました。

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