男と女以外の性別は存在しない

 皆さんどうも。まず、過激なタイトルにした事については謝らねばならない。あくまでタイトルは、端的に説明すると、ということである。詳しく説明するとニュアンスは違うのだが、やはり結局はタイトルに帰結するのだ。
 また、これから書くことは私自身も本気で思っているのではない。単純に、面白そうだから論じてみた、というだけで、本気でそう思い込んではいない。よって、この文章は半分冗談で……つまり、フィクションの論文みたいなものだ。物語に登場する架空の論文くらいの気持ちで読み進めて欲しい。それでは、本題に移る。

1.あなたの性別は?

 早速だが、これを読んでいる珍しいあなたは、男性だろうか、女性だろうか。もちろん、生物的、身体的特徴がどちらなのか、等というあくびの出る質問ではなく、精神的な、言わば性自認の話である。世間的には、性自認というものには様々な種類が存在していることになっている。LGBTQ+もそこそこ浸透してきているし、最近性自認を改めた人もいるかもしれない。ただ、そういった人達に言及しようとすると、性別の分、この文章が長くなるので、今回は便宜上「男性」と「女性」のみに絞らせていただこう。他の性別の方にも、汎用性のある文章になるようには努めさせていただく。
 というわけで、男か女かの皆さんだが、なぜ自分がその性別であると言い切っているのだろうか。特別、その性別を名乗っていて不便はないから? それとも、自分自身の身体的特徴と一致させるため? はたまた、趣味趣向がその性別に寄っているから?
 とんでもない。そんな詭弁で、自分の性別を決定づけられると本当に思っているのか。上記の理由で自分の性別を名乗っている人は、今一度の見直しが必須だと、私は提言する。一つずつ、上の理由の馬鹿らしさを説明していこう。
 まず、「今のところ不便を感じないから」という理由だが、なんというネガティブな性別の決め方だろうか。そもそも、そんなことを考えている人達は、自分の性別を変えた時に不便があるかどうか考えたのか? 多分、自分の性別にそこまで関心がないのだろうから、責め立てるつもりもないが、その理由はとても後ろ向きなものだ、という指摘だけはさせていただこう。別に他の性別でも、不便はなかったと思う。
 次に、「自分の身体的特徴と同じだから」という理由だが、どうして揃える必要があるのだろうか? 別に揃ってなくたっていいだろう。最近の風潮だと、そういうケースにも理解があるようだし。所謂シスジェンダーでヘテロセクシュアルを名乗りたいのだろうが、そうである必要はない。まぁ、揃えておけばある程度、性別のアイデンティティは潰せるだろうが……。
 最後に「趣味趣向がその性別に寄っているから」。何を隠そう、これが今回の主題だ。自分の性別について考えてみると、最終的にこの理由で性別を決定する人が多いように思える。あくまで主観だが。しかし、私はこれを否定できると思ったために、性別が二つしか存在しないと言い切った。

2.LGBTQ+という偏見の塊

 そもそも、趣味趣向に性別が関係あるとは何なのだろうか。テレビのドキュメンタリー番組でトランスジェンダーの話題が取り上げられる際、よく聞くのは

昔から異性の格好をしてみたかった
異性らしく振る舞いたいと思っていた

というような言葉だ。……いや、それって偏見では?
 例えば「メイクは女がするもの」というのは偏見だ。男でもメイクする人達は、最近よくメディア露出している。「ドレスは女性の衣装」とかもそうだ。「女性は専業主婦で、男性は働け」というのも、近年は否定されつつある。女性の間では、脱コルという「女性らしくあるのを辞める」みたいな運動が興ったそうではないか。
 いやぁ、これはまずい。男がドレスを着るのも女が短髪にするのもおかしくないのでは、趣味趣向では性別を決められないではないか。「私は男なのだから、女らしい格好をしよう」なんて奇妙な文が成り立ってしまう。HAHAHA。
 では、もっと本能的な趣味趣向にすれば、性別を確立できるだろうか。性癖とか、好きな相手が異性か同性か、だとか。

「自分は女の人が好きだから、男である」

 残念だが、そうであっても自分の性別は定義できない。これもまた、多様性が認められたが故に、である。Seekingの用語集によると、世の中には「ガイネセクシュアル」「アンドロセクシュアル」なるものが存在している。噛み砕いて言うと、「自分の性別に関わらず、片方の性別の人を好む」ということだ。「女の子になって女の子と恋がしたい」という場合、身体的特徴が男性だが、トランスジェンダーでガイネセクシュアルとなる。
 いよいよまずい。こうなると、性別が分からないじゃないか! そもそも、男性と女性とはどのように定義されているのだ。自分の好きな物も、好きな者も関係ないとなれば、理由の付けようがないではないか! あなた方はそんなことを考えているのだろうが……正解だ。私はこのように考え、結論として精神的な性別など存在しないとした。なぜなら、定義が存在しないからだ。精神的な性別なんてものは空想で、この世には身体的な性別しか存在していない。

3.どうしてこうなったのか

 世界はどうして、「身体的な性別以外に精神的な性別がある」なんて勘違いをしてしまったのだろうか。多分、これは男女の差別があったからだ。それ以外は思いつかなかった。
 太古、そこに精神的性別は存在していなかった。ただ、男は力持ちだったから狩りをしたし、女は狩りができないから家事をした。適材適所というやつだ。別にここに、ジェンダーとか差別とかは関係していない。女も狩りをしたって良いが、力もないし、種を繁栄させるためには生存して欲しいので、極力やらなかったのだろう。私は古代人ではないので、その辺は知らない。
 やがて、男が狩り、女が家事というのが常識になってくると、ここで初めて差別が生まれた。あろうことか、狩りをしたい女に対して、ただ「女だから」という理由だけで却下する文化が生まれたのだ。あれ、それは何も変わっていないのでは? という人にも詳しく説明しよう。この時代になってくると——有り得ない話ではあるが——「生殖能力のある男」も狩りに行かせるし、「生殖能力を失った力のある女」も家事をさせた。これは全く適材適所ではない。例えると、「お前は総理大臣と同姓同名だから総理大臣をしろ」みたいなもんだ。……喜劇かな?
 ともかく、そんな差別の歴史を歩んだ結果、現代において精神的な性別とやらが生まれた。メイクをするのに男も女も関係ないのに、「メイクは女がするものだ」という差別があったせいで、「メイクは男もしていい」という反論が現れ、「男でメイクをする奴は精神が女なのだ」という捻れた理論が生まれた。実に馬鹿馬鹿しいな。
 これで分かっただろう。精神的な性別なんてものは元より存在していない。だから、世の中には男と女以外の性別は存在しないのだ。「男なのに男が好きな人」はバイセクシャルなんて呼ばずに、「男が好きな男」で済む話なのだ。

4.終わりに

 ここまで私の駄文を読み進め、理解した人は薄々気づいているだろうが、LGBTQ+というのは「男女差別があったからこそ」のものだ。私は、LGBTQ+はその土台に差別が存在しているから今すぐにでもその呼び方をやめろ、と声を荒らげるつもりはない。ただ、差別の歴史を認めた上で言うのならLGBTQ+と言えばいいし、差別の歴史を全て闇に葬り去りたいのなら無くせばいい。それだけである。
 私の文を読んで、少しでも自分の性別が揺らぎ、男なのか女なのか分からなくなってしまうことを、切に願っている。

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