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【May not remember well.】イソムラミキGEISAI#22出展作品に寄せて

 2023年4月30日開催のGEISAI#22に美術作家イソムラミキが出展する【May not remember well.】は、日常風景をスマートフォンで撮影し、そこに写っている人物の顔や、その場所を特定する要素をハイターで漂白した、一辺を89mmとする正方形の写真作品群である。イソムラは芸術大学在籍中の2016年から一貫して「私は私を共有したい」というテーマで制作・発表活動をしているが、本作での試みは、日常生活でイソムラ本人が大切に思い、また忘れたくないにもかかわらず、時間が経った出来事はもちろんのこと、直近のそれさえうまく思い出せず、そして思い出せなくなっていることすら忘れてしまうという経験の連続を表現することである。本作はごく個人的な日常を写した作品でありながら、その個別性を文字通り漂白することで、鑑賞者もまた自らの同じような経験に照らし合わせるように促される。「私は私を共有したい」のに、共有する肝心の「私」が悉く隠蔽される。いや、むしろ目に見える「私」の姿を隠すことで「私」の経験を共有可能にしている。つまり鑑賞者は、この小さな作品の連続から、思い出せていないだけかもしれない出来事を追体験させられるのである。イソムラ作品に通底する「共有」というテーマとSNSとは相性がいい。イソムラのインスタグラムには、本作を同じ部屋で撮影したと思われる画像がバラバラに並んでいる。写真の撮影、現像、漂白、再撮影、そしてインスタグラムへの投稿と、元の経験そのものから遠ざかっていく経過とともに、何重もの手つきで思い出を扱うことが、そのまま「思い出す」ための試みの連続となっている。
 うまく思い出せないというイソムラの実感は、おそらく正しい。そもそも「思い出す」とは、脳内に蓄積され私有された記憶を取り出す行為よりも、むしろ重要なのは、世界に刻まれた「過去」そのものと触れ合うような、イメージに身体が乗っ取られるような経験だろう。小林秀雄は「無常という事」というテキストで、思い出は美化されるという常套句の意味をみんなが間違えていると述べた。よく言われるようにわれわれが過去を美しく飾るのではなく、実際には過去の方でわれわれに「余計な思いをさせない」のだという。

記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。多くの歴史家が、一種の動物に止まるのは、頭を記憶でいっぱいにしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。

小林秀雄『無常といふ事』「文學界」昭和十七年六月号(小林秀雄『モオツァルト・無常という事』新潮文庫、平成十八年版、p.86)

一種の動物に過ぎず、「常なるもの」を見失った生きている現代人は、往々にして大切な思い出すら思い出せなくなっていることさえ思い出さなくなっている。本作でイソムラが共有したい「私」とは、ここではイソムラミキ本人というより、イソムラと同じようにわれわれもうまく思い出せない一種の動物であるという側面なのかもしれない。
 しかしながら、時間を越えて、空間を越えて、経験は共有されうる。容易ではないが、不可能でもない。小林が比叡山で『一言芳談抄』の情景をそのまま経験したように、成功の期はあるのだ。

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