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齋藤と伊藤

映画の中の主人公の仕草を真似てしまう映画は、良い映画だ。

映画館から出ようとすると、傘を折り畳みながら入ってくる人達とすれ違った。手を天に翳すと、傘を差すほどの雨は降っていなかった。一度開き掛けた傘を逆手に持ち、存在しない敵に斬り掛かろうとして、すぐに我に帰った。六本木ヒルズの、駅に向かうまでの通りには、多くの人が行き交っていた。鞘に納めるような振りを仕掛けてしまい、何事も無かったように落ち着いている左手に持ち替え、歩みを進めた。

微かに雨に濡れながら、思い出していたのは、一週間前に観た映画のことだった。普段行くことの無い池袋の人の多さに、気後れしていた。広場では、アニメのカードか何かを広げているフリーマーケット的な空間があり、アニメが中心にある街なんだと思った。
映画館は、通りに比べて、人が疎らだった。上映数の増減というのは、世知辛いものだと、資本主義的な何かを憂いてしまう。

映画に息を吹き込むのは、「声」なんだと思ったのは、「映像研には手を出すな!」だった。主役の三人をそれぞれのキャラクター足らしめているのは、その「声」だった。特に、齋藤飛鳥さんは少し声色を変えていたが、本当に魅力を生んでいるのは、その変えた声の奥にある齋藤さんが生来持つ声の温度なのだと思うのだった。齋藤さんの「声」は一つの才能なんだと思う。
主人公が吐き出す感情もまた、齋藤さん自身の「声」でもあるように聞こえた。「物語」は、一人の力ではなく、三人、その他の人の力があって、生み出されていく。

自分が信じるものを、自分が大好きなものを、仲間と共に、作り上げる映画は、良い映画だ。
それを、青春映画、と一般的に称するのかもしれない。
青春映画というのは、良い映画ということだ。

「サマーフィルムにのって」という映画は、まさに青春映画だった。

映画に息を吹き込むのは、「表情や身体の動き」なんだと思った。くねくねと動く腕や足、走る姿、心底恨めしそうな顔、タイトルバックと共に映る横顔、少女が生み出す全ての造形は、伊藤万理華さんにしか出せないものだと思った。伊藤さんの「表情や身体の動き」は一つの才能なんだと思う。
しかし、才能というのが弾けるのは、巡り合わせなんだろうとも思った。
決して自分が先頭に立つことなく、思い描いた未来とどうしてもずれてしまうことの、苦しさを感じることはとても多い。むしろ、そんなことしか無い。
伊藤さんも、もしかしたら似たような感情を持つことがあったかもしれない。それでもきっと、自分が信じるもの、自分が大好きなものはあって、前に進んできたのだろうと思う。
とても大きな未来が伸し掛かるけれど、本当に大事なものは今目の前にある大好きなものを、信じられるものを、作り上げることなんだと、主人公たちと伊藤さん自身が重なり合った。

勝手に他人の人生の物語とその行先のわからなさに感動するのだった。

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