栗、もう少し垢ぬけてくれよ

 栗のことを見下していた。今も見下している。イガグリはうにみたいな形で異質だ。球形で細いトゲが全体に生えているあの感じはなんというか、変だ。トゲは触ったら痛いし、色味も根暗な感じの地味さだ。いつも道の端に落ちているところばかりを見る。
 威厳とも美とも色気とも力とも無縁に見える、変でとがっているくせに存在感のない栗のあの感じを見下してしまうところが、どうしても僕にはある。ごめん。これは栗に謝るので合っているんだろうか。
 イガグリを開いたら開いたで、固くつるつるした殻に包まれた栗の実が出てくる。小さな玉ねぎにもう少し安定感を加えたような形をして、また地味な色で。これもこれでやはり、お洒落とかにはどうしてもならない。せいぜい絶対に相手から脅かされないという侮蔑めいた安心を孕んだ「かわいい」だけが感想としてある。他者からであれ自己からであれそういう類の「かわいい」を感じとったことは、ある人にはあるだろ。
 栗の固い殻は剥くのに苦労する。そういうところまで含めて栗ってやつはどうしてこう野暮ったいんだろうな。固い殻を剥くと黄色い実があって、これはいよいよ食べられる。ホクホクとした食感とほのかに甘い味が感じられる。食感と味まで庶民的を煮詰めたような感じなのな。
 茶色のイガグリ、光沢のある茶色の固い殻、ホクホクの黄色い実とコントラストは三重にあるはずなのに、この決して裏切られない感覚はなんなんだろうか。こんなだから侮られるんじゃないのか。栗。
 栗を加工してできるものといったら栗のモンブランだ。ペースト状にまで栗が栗を徹底的に捨て去ってできたものなだけあって見た目はいい。なのにいざ食べだすと決まって三口でお腹いっぱいになってしまう。あの甘味は飽きというか、より率直に言えばギブアップがくるのが早い。形も名前も捨て去ってモンブランになってまでどうしてこうなんだよ、悲しくなってくる。

 一転して栗が輝く瞬間がたった一つだけある。それは「栗色」という言葉の一部として現れる瞬間だ。栗色は華やかだ。親しみと滑らかさと奥ゆかしさと艶っぽさが共存している。栗色はもう、髪でも瞳でも服でも爪でも装身具でも全部いい。僕が何かに栗色という呼称を用いた時には既にそれに魅了されていると思う。栗色はそれぐらい、いい。
 だけど栗色に魅了されるたび、栗に対する自分の態度が想起されては申し訳なさがこみ上げてくる。許されたい、と言おうとしたけど栗に許されようなどと僕は思っていない。夢に栗が出てきて「許すよ」とのたまったら僕は怒ると思う。なんて言いながら僕は栗の見た目も味も嫌悪しているわけではなくて、ただ自分から栗への気持ちに上からの蔑みを感知してしまうんだ。全部が嫌になるな。今日寝ている間に栗という存在のすべてがもう少しだけ垢ぬけていてくれないだろうか。

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