早熟に見られがちだった

 僕は小さな頃から早熟キャラだった。つまり、年上の人や先生あたりから「シータケくんは同い年の子たちの中では年上っぽい」「振る舞いが大人っぽい」などと言われがちだった。いやもちろんこれを読んでいる人には「シータケくんが?あのガキ坊がか?!」と思う人もいるかもしれないが、事実として僕はどちらかというと年をとっているように見えると言われがちだった。
 実際のところの僕は自己認識としてさほど大人なわけではない。ただ、大人っぽく見える理由があるはあるんだろうという話をしたい。22歳の今がギリギリこの話題の消費期限だという気がするから今のうちに、自分の少年時代の備忘録として書いておこうと思います。まだギリギリ覚えているから。

 まず僕が本当に大人な感じではないという話をする。僕はめちゃくちゃ負けず嫌いでつまらない勝ち負けにこだわるし、ごはんを食べるペースを人に合わせられないし、話を聞いてもらえるだけで喜ぶし逆に自分以外の人たちどうしが話しているのを聞く立場は苦手だ。大人とか子どもとかいう言葉にやたらと反応する態度もあまり大人っぽいとは言えまい。そして大人っぽいと言われたら正直かなり喜んでいる。さらに言わなくていいことを言わないように我慢するのも上手ではない。
 そろそろ恥ずかしくなってきたから終わるけれど、僕はどちらかというと単純で素朴であどけないような感じの性格だ。コミュニケーションもさほどスマートではないし、手札も多くない。一人っ子でもあったし。もしかしたらさみしくて眠れない夜や怖くてトイレに行けない夜もあるかもね。もしかしたら!ね!

 どうしてコイツが大人っぽいなんて言われながら育ってきたのか不思議に思われると思う。僕も書いていて不思議に思ってきた。でも多分、次に挙げるいくつかの理由はだいぶ説明になると思う。

 まずシンプルに、大人っぽいと言っておけば喜びそうなやつだとバレていた可能性がある。これがすべてだったらもう、顔から火が出る。マスクが火事になるわ。なんというノート記事を書いているんだ僕はって感じ。
 本当に大人っぽく見えているとしたら、僕がけっこう変わった人間な上になかなか擬態しきれていないというのがある。今の僕なんて本当に自由奔放にやらせてもらっている自覚があるが、昔からずっと、周囲に合わせることができていた時期はない。それは結果的に同世代のみんながこだわることにこだわらない奴、という位置取りになっていたかもしれない。
 似たような話で、僕が流行に疎いがちというのがある。流行にのそのそついていく感じは少し年上のムーブだという気がする。特に児童とか生徒でそうだと目立つよね。流行に疎かった本当の理由は、流行にさっさと乗っかるのが悔しかったこと、三月生まれなのもあって嗜好の成長がむしろ同学年の子どもたちよりも遅かったこと、親が高齢だから親からの影響のありようが一回り上世代と同じだったことあたりだ。
 まぁそしてありきたりながら、僕は勉強のできる委員長キャラではあった。クラスで一番ではなくともある程度大人っぽい位置取りにはなるんだろう。ちなみに今の僕はそういう位置にいることもそういう位置にいる人もあまり好きではない。
 ラスト、これは子ども時代限定の早熟感だろうけど、僕は外でかなり猫を被る方だった。明るくまじめに振る舞おう、性格がない感じでいこうという基準で動き続けていた。僕が性格を出そうとするのなんて幼馴染と従妹の前くらいだったかな。猫を被ってくれる子どもはまぁ、早熟って呼びたくなるかもしれないね。もちろんこれは子ども時代限定の大人っぽさだと思う。22歳にもなって猫を被りながらバレないと思っている傲慢な人間は人間の得体の知れなさを未だに知らないという点において愚かで幼い。

 僕が実態のわりに早熟だとか大人っぽいとか言われながら育ってきた背景にはこういうことがあったんだろう。振り返ると色々な要因が重なっていたらしい。子どもは大人っぽいって言われると喜ぶけど、あんまり言い続けると自尊心と自意識の肥大化した異形に仕上がると僕は身をもって学んだから、やりすぎ注意です。子どもに接する皆さん。お気をつけて。

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