猫の婿取り
時は満ちた。私との約束を破ったあの男の子供が、十五の誕生日を迎えた夜。私は夏の夜霧と共に、小さな家の赤い屋根に降り立った。男の子供がいる部屋はわかっていた。かつて、あの男が私を愛でたあの部屋だ。既に子の刻だが、室内からは青白い蛍光灯の光が漏れている。
「風よ、あの窓を開けておくれ。」
私が囁くと静かに目的の部屋の窓が開き、懐かしいあの家の匂いが鼻をくすぐった。私は静かに部屋に滑り込み、驚いている少年の目の前……本が広げられた机の上にそっと着地した。少年がひゅう、と息を飲んだ。父親に似た丸顔に小さな鼻の少年は、父親には似ていない大きな目を見開いて私を凝視している。
「お前、キタムラ タカシの子供だな。」
「そうだけど……ね、猫が喋った……!」
「猫が喋って何が悪い。」
「え、あの……普通猫は喋らないと思う。」
「普通とは?」
「普通は普通……ええと、ごく一般的な……。」
「それはお前が普通・ごく一般的と思い込んでいるだけだろう、若輩者が。」
「あ、はい……すみません。」
「お前、名前は?」
「え。」
「私の名前は甘夏。お前の名前は。自分の名前も言えないのか。」
少年はしばらくの間ぐずぐずと逡巡していたが、やがて意を決したように名乗った。
「ユウ。キタムラ ユウです。」
「ユウ、よく聞け。お前の父親は幼い頃、私と夫婦の契りを交わした。」
「はぁ?……はあ。」
随分気の抜けた返事だ。いや、返事以前に、ユウからは若者特有の元気や溌剌さが感じられない。タカシもそれ程しゃっきりとした男ではなかったが、ユウは輪をかけて生気のない少年だった。どうも反応が薄い。最悪私を見て驚いて逃げ出す可能性も考慮していたので肩透かしを食らったような気持ちになったが、気を取り直して本題に入った。
「お前の父親は私を裏切った。私を置いてこの家を出、突然知らない女を連れ帰ってきて、結婚すると宣言した。そして、女が猫アレルギーだからすぐさま出ていけと私に命じた。」
「何それ、ひっでぇ……。まぁ、父さんだったら言いかねないな。」
ユウが一人納得し、頷いた。「父さんだったら言いかねない」と思われるタカシはユウにとってどんな父親なのか……私は胸の奥に小さな痛みを感じたが、それを無視して話を続けた。
「私は黙って旅立った。行く宛もなく、歩いて、歩いて、歩き続けた。昼も夜も飲まず食わず、ただひたすらに歩いた。そして行き倒れたところを、山向こうの町の稲荷に救われた。それから少しずつ力を得て、十年前、ついにお前の父親の夢枕に立つことができた。」
「はぁ。」
やはり、力の無い返答。私を夢の住人か何かだと思っているのだろうか。
「お前、私の話は理解できているか。」
「あ、はい。」
「気が抜けたような返事だが、本当に理解できているのか。」
「本当です。」
「……ならいい、続けよう。私はタカシの夢枕で、私との約束を破った代償として、タカシの子供が十五の誕生日を迎えたその日に、伴侶として貰い受けると告げた。」
「えぇ、随分と勝手な話だなあ。……で、父さんは何て?」
「いいも悪いも言わず。ただ黙って頷いた。」
「そう……。」
ユウは机の上の本に視線を落とし、黙り込んだ。その表情からは何も読み取れなかった。
「……北の山の門を抜ければ、月の裏側に出る。そこに私の家、橘庵がある。美しい竹林に囲まれた小さな家だ。」
「猫なのに持ち家あんの、すげー。しかも、月の裏側!」
ユウは顔を上げ、私を見つめた。
「今宵、私はお前をそこへ連れ去る。二度と戻れぬ場所へ。」
「あ、はい。」
「あ、はい、とは何だ。私の言っている意味がわかっているのか?」
「あ、はい、わかってます。」
「怖い、とか、嫌だ、とか、正直な気持ちを言ったらどうだ。」
「いやぁ、別にいいかなぁ、って……」
ユウは顎に手を当てて、言葉を探している。ああ、これはタカシと同じ癖だ。懐かしくも憎らしい、あの男の面影。
「なんていうか……正直、未来に希望がないんです。どん詰まりじゃないですか、この世界。それに、父さんは外に愛人がいて滅多に帰って来ないし、母さんは変な宗教にハマってるし。誰も俺のことなんか見ていないし、必要としていない。」
ユウがポツリポツリと零した言葉を聞いて、私は震えた。
「タカシが……何故……お前、何と哀れな……」
「あ、怒って毛を逆立てなくて大丈夫です、俺、何とも思ってないんで。もうどうしようもないのはわかっています。各自勝手に生きてくしかないんですよ、うち。だから、俺が甘夏さんの家に行っちゃっても別に問題ないです。」
ユウが自嘲気味に笑った。その目の中に悲しみはなかった。悲しいのは、私だ。かつて愛した男が私を捨ててまで作り上げた家庭はバラバラに壊れ、その子供は無気力にただ生きている。何故こんなことになってしまったのか。
「あの、甘夏さん。俺はむしろ、あなたと一緒に行ってみたいです。」
「父親にも母親にも友人にも会えなくなるぞ。北の山の門を抜ければ、お前はこちら側のモノではなくなるのだから。」
「別にいいです、ここにいても何にも面白いことないんで。あ、あの、一応聞いておきたいんですけど。」
「何だ?」
「そちら側では、マスクって必要ですか。」
「マスク?そんなもの、要らないに決まっているだろう。」
「じゃあ行きます。」
「本当か。」
「本当です。」
ユウが力強く頷いた。
「八百万の神々、鬼、妖が待つ世界だぞ。」
「望むところです。」
「伴侶は私だぞ。」
「仲良くしましょう。」
ユウが右手を差し出した。瞳の中に映るのは、橙に輝く私の姿と、希望。
私はユウの手を取った。
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